火焔型土器の作られた時期は、紀元前3250年から紀元前2470年と、寒冷化が起こった時期であるようです。
火焔土器
金生遺跡は紀元前2777年頃という、寒冷化が始まった時期に重なるような時期のようです。
この遺跡で作る太陽暦は、この時期には二十四節気の暦が既に作られていたものと考える。
立春の観測 朔旦立春
しかも太陽観測では、朔旦立春が観測され、太陽暦と太陰暦が重ねられ、海辺でも内陸でも、正確な暦が利用可能となっていたものと考えます。
太陽観測により正確な暦が作られ、自然の季節を正確に捉えることが出来ていたけれども、それでも自然の猛威には抗すべきすべが無く、住んでいた地域を離れていったものでしょうか。こうした手の込んだ火焔土器などのような中期の土器は、寒冷化する気候に対して、良い気候が戻ってきてくれることを祈るために心血を注いで作られた祈りの結晶だったのでは無いか。こうした土器は太陽の秘密 二至二分、さらに八節 半年一年暦 4分を象徴する 4 を示すものである。
こうして太陽の回復を祈る祭祀のため 4突起火焔の口縁を持つ土器が作られたものと考える。
縄文の女神
あれ程に手の込んだ細工をするのは、そういった祈りの心無くしては出来ないのでは無いか。そんな祈りもむなしく、その人々は去り、
その後に来たのはこれまで利用できなかった食物を利用できるハイテク土器を持つ人々だったのだろうか。
30稲場式土器
写真はお借りしました
引用ーーーーーー
この講演の最初に紹介した火焔型土器(図1)の象徴的な意味は、まだ完全に解明されたわけではありません。
しかし、火焔型土器が作られた時期は紀元前3250年から紀元前2470年と、火焔型土器が出土する地域に寒冷化の気候変動が起こった時期と一致していることが最近の研究により分かってきました。
それまでこの地域はシカ、イノシシ、クマなどの動物と、さまざまな野草という豊かな食物に恵まれていました。しかし寒冷化の影響で木の実と植物の種子が減り、それらを食料にしていた動物たちも減少しました。冬には3メートルもの雪が積もるようになり、この地の縄文人たちは食糧の不足に悩まされるようになりました。
春が来たとき、当時の人たちの喜びはどれほど大きかったことでしょう。土器を飾っている炎のような突起は、春に雪解け水から立ち上る水蒸気のようであり、地面から姿を現す新しい草の芽のようでもあり、自然界が春に発する活力を表わしたものであると多くの学者が考えています。
縄文時代の人たちは、これらの土器を用いて儀式のための食べ物を調理し、自然に対する自分たちの感謝を表し、自然界の再生する力が再び豊かな食物を与えてくれることを祈ったのだと考えられます。