太陽暦については縄文人は縄文前期から二至を観測、縄文中期には二至二分を認識していた。縄文後期に金生遺跡では「四立の立春」を観測していた。文字で残っていないのでこれをなんと呼んでいたのか分らないが、金生遺跡に暦があったとすれば、農耕に効く二十四節気の暦を想定する、それは4500年前となる。
チャイナでは
二至二分と四立を合わせた8つの節気を「八節」として節気の柱にしたのが、西周(BC1100~BC770年)の時代だと言う。
それがさらに細分化され二十四節気となったのが春秋戦国(BC770~BC221年)時代だといわれる。
もしもこれが本当の話だとすれば金生遺跡では4500年前に出来ていたということ。
チャイナは遅すぎるので、エジプトやシュメールと同時期と言えるのでは。
しかしヨーロッパには、ケルトは別として、二至二分などと言う考え方は薄いようなので、現代と対比するのが良いのだろうか。
写真はお借りしました ストーンヘンジ 夏至の日没
引用ーーーーーー
二至二分と四立を合わせた8つの節気を「八節」として節気の柱にしたのが、西周(BC1100~BC770年)の時代です。
それがさらに細分化され二十四節気となったのが春秋戦国(BC770~BC221年)時代だといわれているのです。
立春や啓蟄などの二文字の漢字で表されるそれぞれの名称は、二千年も前に「漢書律暦志」という書物の中に書かれていますから、かなりの暦史があるということです。
そもそも二十四節気は、太陰暦が実際の季節と大きくずれて農作業に支障が出てしまうことから、正確に季節を掴む目的から考えられたともいわれています。すなわち季節あるいは寒暖乾湿を正確に知ることが、豊かな実りを獲得する術であったという事なのです。
二十四節気はこうして中国で作られ、日本へは平安時代に入って来たと言われているのです。また、中国から移入された二十四節気や五節句のほかに季節を知る特別な暦日として、雑節が設けられています。誰もが知る節分やお彼岸などを含め9つあるのですが、これらは日本独特のもので、日本の気候風土の移り変わりをあらわしています。