金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

撚糸文系土器も供献土器

鮭取りはどうしていたのだろうか  これは鮭釣りの糸なのか、
釣り上げていたのか
撚り糸とは
引用ーーーー 一方縄文早期の西日本では、この写真のような押型文系土器がさかんに作られた。押型文とは硬いものを押し付けてつくる模様のことである。
このほかに、普通の縄よりも細い撚糸を用いて文様をつけた撚糸文系土器と呼ばれるものが主に東日本で作られた。このように、縄文時代の早い時期から、土器には地域差があったわけである。    ーーーー引用終わり


このように云われているから、東北地方とすれば、鮭取りが思い浮かぶので、関係あるものとしたいけれど、どうなのか、その他の只の魚釣りなのか。
また
 撚糸文(よりいともん)は植物繊維を撚(よ)り合わせた細縄を丸棒の軸に巻きつけた原体 (絡条体) を回転して施した文様。関東地方の早期前半には,土器面を撚糸文あるいは縄文のみで飾る様式があり,撚糸文系土器と名づけられている。このことはよく考えてみると、「丸棒の軸に巻き付けた原体」これこそが釣り糸を巻き取っていた糸巻きなのでは無いだろうか。糸巻きの糸を使って釣りをしていたと言うことなのではと思う。

 

     

 

この模様を付けるには多大な労力を掛けていたはずで、これも実用目的で付けたものでは無いようなので、供献土器と見て良いのでは無いか。特別に作られていたものと判断する。
それは何かと言えば、撚り糸での魚釣りの技術が開発されて、その効力を祝ったものか、魚が良く掛かるように祈りを捧げたものなのか、釣り糸も釣り針も当時のハイテク製品であり魚釣りの技術は崇拝する対象とされるものだったはずと考える。

いずれにしてもその後に現れた、ハイテク技術の暦を示す波状突起口縁の土器と並ぶものの先駆けとして理解して良いのでは無かろうか。糸そのものがどのような太さのものなのか、計測記載が無いので分らないのですが。それに縄文土器というのはこのような縄目というか撚り糸目というか、それが有ることが特徴とされていることが元になっているものであることも忘れられないことです。

 

 

さらに
 突起こそが縄文土器を縄文土器たらしめている必須の属性である。
そもそも、突起が縄文土器の歴史に登場するのは草創期の最古の土器群の中にまで遡り、新潟県室谷洞窟の多縄文系土器には明瞭な波状口緑もある。
しかし、突起と波状口緑は順調に継承、発達することはなかった。
やがて早期に入ってからも、その初頭の撚糸文系土器は一切突起を付けなかった。
中葉の押型文土器および貝殻洗線文系土器に現われた突起が後続の土器様式に継承され、それ以降縄文土器の主要な属性へと成長し続けるのであった。

このように記載されているので、釣り糸方式の漁法と太陽暦による鮭回帰の漁法では異なっていて、
気候が変り生業が変化すれば、その生業のための肝腎の道具は異なり、供献土器は異なると思う。
丁度この時期がヤンガードリアスの時期に当たるのでは無いだろうか。太陽暦により回帰する鮭がとれ始めていたが、寒冷化でもう一度釣り糸方式の漁法に返り、その後に温暖化して太陽暦漁法の回帰する鮭取りに戻ったとすれば理解出来る。

 

 

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

 無文土器は青森県外ヶ浜町の大平山元I遺跡で、16,500年前の文様のない土器のかけらが発掘され、現段階で日本最古の土器といわれている。
曽根遺跡の無文土器には器面をきれいに撫でて、なめらかに仕上げられているものが多い。指で撫でた痕を遺している土器片もあった。無文土器は上諏訪駅前のデパート周辺の片羽町遺跡(かたはちょうー)でも見られ、草創期から不可欠な土器であったようだ。
神奈川県大和市深見諏訪山遺跡では、縄文草創期層から出土したのが、無文土器・爪形文土器・撚糸圧痕文土器であった。
無文であれば、日常消耗される土器である事が殆どで、草創期のみならず、縄文後期から晩期にあたる長野県篠ノ井信更町(しんこうまち)の大清水遺跡で大量の無文土器が発見されている。
信更町には聖川が流れ、遺跡は豊富な湧水帯の湿原の中にある。器形と大きさにおいて斉一性があり、大きさは口径が25cm~40cmのものが中心である。内面は丁寧に仕上げられているが、実用重視で短時間に粗製仕上げされたようで、器面には継ぎ目が残り粗略であった。

縄文時代を通して各地方で製作量と形体は異なるが、深鉢の煮沸機能を専らにする無文の土器の方が大量に生産されていた。
多量の木の実を短時間で調理する無文の粗製土器が、生産性と機能を重視した土器として主流となっていた。

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縄文時代 釣り糸縄文人は釣り糸をどうやってつくった?
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縄文遺跡からは、動物の骨を削ってつくった釣り針が、よく出土します。
しかし、今まで、釣り糸がついた状態で発見された釣り針はひとつもありません。ということは、釣り糸は何か朽ち果てるモノでできていたようですが、それは何だったのでしょうか?
釣り針と一緒ではありませんが、植物繊維をよりあわせてつくった紐の断片は、各地の縄文遺跡で発見されています。それらの紐が釣り糸ではなかったかと推定されています。
その素材は、クワ、フジの木などの表皮の下にある甘皮の部分、イラクサ類の表皮の繊維をよりあわせたものでした。つまり、縄文人たちは、かなり細かい、ていねいな手作業で、釣り糸をつくっていたようですね。

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一方縄文早期の西日本では、この写真のような押型文系土器がさかんに作られた。押型文とは硬いものを押し付けてつくる模様のことである。
このほかに、普通の縄よりも細い撚糸を用いて文様をつけた撚糸文系土器と呼ばれるものが主に東日本で作られた。このように、縄文時代の早い時期から、土器には地域差があったわけである。


(1)初期土器群の概要
縄文時代早期初頭の土器 (撚糸文土器/大鼻 ・大川式押型文土器/前平式系貝殻文円筒土器など)に先行する出現期の土器群を 「初期土器群」と仮称する。 「縄文時代草創期」とい う従来の一般的な位置づけは、年代観の改訂と時代区分の見直しにより再検討が必要となっている(谷口2002b)。


文様は、細い糸を撚って木の棒に巻き付けたものを回転させた撚糸文系土器、楕円形や山形の刻みをつけた棒を転がした押型文系土器、土器の表面に貝殻や棒で文様を描いた貝殻・沈線文系土器、ギザギザになっている貝殻の縁を使って条線を引いた条痕文系土器などがあります。条痕文系土器には植物繊維が混入しているため、土器の断面が黒くなっているのが特徴です。


約10,000年前?6,000年前の早期に入ると、日本列島は完全にユーラシア大陸から分離。道具がやや進化し、煮炊きに使用する「撚糸文系土器」(よりいともんけいどき)が登場し、ドングリやクルミなどの木の実を栽培する初歩的な農耕もはじまりました。


東北地方及び北海道南部を中心とした地域では、棒軸に巻き付けて回転施文した撚糸文(よりいともん)土器群から始まり、棒軸に彫刻して回転施文した押型文(おしがたもん)土器群など、土器面に装飾が意図されるようになった。後半にみられる、棒状具で条線を描いた沈線文土器群や貝殻による条痕文(じょうこんもん)土器群には、部分的なモチーフが加えられるようになった。

撚糸文(よりいともん)は植物繊維を撚(よ)り合わせた細縄を丸棒の軸に巻きつけた原体 (絡条体) を回転して施した文様。関東地方の早期前半には,土器面を撚糸文あるいは縄文のみで飾る様式があり,撚糸文系土器と名づけられている。


縄文時代早期(約9,000~6,500年前)
 石鏃(せきぞく)や石斧(せきふ)などを主体とする新石器を使用し始めた時期で、植物繊維を撚(よ)り合わせた細縄を棒軸に巻き付けて回転施文した撚糸文(よりいともん)土器群から始まり、棒軸に彫刻して回転施文した押型文(おしがたもん)土器群など、土器面に装飾が意図されるようになりました。後半にみられる、棒状具で条線を描いた沈線文土器群や貝殻(かいがら)による条痕文(じょうこんもん)土器群には、部分的なモチーフが加えられるようになりました。

    コメント そうなのか これは生業に関係する道具などで模様を付けたのでは無いのか
         供献土器に先駆けたのがこの模様付けでは


回転印章を最初に使用したのはシュメル人の東方にいたエラム人と考えられていますが、
粘土に回転させて印をつけるというのは、
日本列島の縄文人が5000年以上早く、回転縄文→撚糸文→押型文として特許を取得しています。
さぁ、エラム人はいったい何処から来たのでしょう(笑)(????)?


 東京都栗原遺跡は小平市鈴木町(鈴木遺跡)を源流にした石神井川が、板橋区と練馬区に入るあたりの田柄川と合流する地点の西側に位置し、現在は「都立城北中央公園」内に存在している。この栗原遺跡と石神井川を挟んだ東側には、旧石器研究史上著名な板橋区「茂呂遺跡」が存在している。栗原遺跡の発見は、石神井川流域をフィールドにしていた考古少年グループが、一九三八・三九(昭和一三・一四)年に日本最古と考えられていた「縄文文化」の最古型式の「撚糸文土器」を採集したことに始まる。


1万年前から以降、気温は7千年前をピークにどんどん上昇し、最終的に現在より1から2度高い気温になる。約8500年前からは、対馬海流の日本海流入により冬季降水量もあがり、日本海側の多雪化をもたらし東北地方でもブナ林が成立する。
土器は撚糸文や押型文が主体で、尖底が一般的になる。竪穴住居は後半になると長軸10メートルにも及び(青森県中野平遺跡)、定住による大型化といえよう。気候変化で堅果類利用にも変化があり、クルミなどが出土。これに連動して敲石や磨石などの礫石器も増加し、石匙も増加した。関東東海では貝塚が形成されはじめるが、東北地方では認められない。
    
    コメント 貝塚は関東から北に広がって行ったようだ


 現在の視点でみれば総社砂層及びその相当層は早田(2003)が注目したように利根川扇状地に広域に分布していることがわかる。また、それらの堆積物の堆積開始期は、ほぼ一様であり浅間宮前テフラの降下期で縄文時代早期撚糸文期末の10.5千年前である。


 それは10.5千年前の浅間宮前テフラの降下期で縄文時代早期撚糸文系稲荷台式土器の時期。
7.5千年前の縄文時代早期末の条痕文系土器の終末期。
6.5千年前の縄文時代前期前半の黒浜式土器の時期。
5.5千年前の縄文時代中期前半の勝坂式土器の時期。
そして4.0千年前に埋積谷の下刻が一様に始まる縄文時代後期前半の堀之内式土器の時期である。
これらの時期を見るとおよそ1.5から1.0千年周期で降水量が増加し、堆積物が山麓から供給された可能性が見て取れる。


 これと同様の傾向は南関東地域の海浜地域でも認められる(松田2010)。
縄文時代早期前半の撚糸文系土器期の11.5から11.0千年前はプレボレアル期にあたる。温暖化が進み降水量は減少して森林が安定したのだろう。遺跡数は増加するが、
早期中葉の沈線文系土器の時期である10.5から9.0千年前に降水量が増加すると遺跡数が減少した。早期後半の条痕文系土器の時期である8.5から7.5千年前はボレアルからアトランティック期に移行し、降水量は減少して森林が安定したのだろう。これにより遺跡数は増加するが、
早期末の7.5千年前には、再び降水量が増え、外来からの土器の移動が増えるなど外的な要因もあって遺跡数は減少した。


条痕文期の貝塚、貝塚を伴わない遺跡
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用
印旛沼沿岸や東京湾沿岸では貝塚と貝塚を伴わない遺跡が近接していわばセットで存在しています。
ところが大須賀川流域や九十九里では貝塚を伴わない遺跡だけが集中して存在する場所があり、それは狩本村と貝塚出村という空間的に離れたセットが存在していて、貝塚は地象(波蝕台形成による破壊と沖積層堆積による埋没)でほとんどが消失したと考えました。
つまり
縄文海進前期(早期撚糸文、早期沈線文を想定)には海が遠いので、その利用は狩本村とは別に出村形式で貝塚(漁労)を作るしかなかったのですが、
縄文海進後期(早期条痕文を想定)には急激に海が広がり、狩をする生活圏に海が到来し、漁労の場(貝塚)を特段出村にする必要がなくなったと考えます。


「浮島式土器は、利根川下流域の茨城県、千葉県などを中心とする関東地方東部および東北地方南部にまで分布するもので、
関東地方西部から中部地方にかけて見られる諸磯式土器に併行する土器型式である。
浮島式、興津式は、竹管と貝殻により施文された土器群であり、各種貝殻文の施文が諸磯式土器群との相異である。
これらの土器群は、文様などの分類については整理されている。地文に撚糸文か貝殻文が施され、半戴竹管による肋骨文の類、平行沈線が胴部上半に施されている類、変形爪形文の類指あるいは棒状工具による圧痕文の類、三角文の類などである。しかし、それらの推移、組合わせについては整理する必要性、可能性を持っている。」
「日本土器事典」から引用


 ハマナス野Ⅰ式土器はハマナス野遺跡出土の、口縁が平らな深鉢形で、斜め縦方向に深く施文された撚糸文が主となる土器で、函館空港第4地点遺跡からも破片が出土している。
 椴川式土器は口縁が平らで長寸な器形が多く、胎土に繊維を含む。斜縄文、網目状撚糸文、縦の撚糸文が施文され、口縁の下に粘土帯もしくは撚糸の押圧痕があり、口縁部文様帯と胴部を区分している。江差町椴川遺跡や函館空港第4地点遺跡、ハマナス野遺跡などから出土しているほか、日の浜砂丘1遺跡出土遺物の約6割がこの時期のものである。
 サイベ沢Ⅱ式土器は椴川式よりも小型となり、口縁部がわずかに外反する。口縁部文様帯と胴部を区分した粘土帯が消え、口縁部文様の幅は狭くなり、撚糸の圧痕文が施文される場合が多い。胴部には、撚糸文、多軸状撚糸文が多用される。この時期の遺跡は少ない。
 サイベ沢Ⅲ式土器は平縁や波状口縁になるものがあり、粘土帯が再びあらわれ口縁部文様帯の幅が広くなり、太めの撚糸原体の圧痕文が施されたものが多い。胴部文様は、多軸状撚糸文が施文される例が圧倒的に多い。この時期になると、各地に大遺跡を形成し、石狩低地帯まで分布域を拡大している。日の浜遺跡で、この時期の住居が発掘されている。


2.早期(BC8000~BC4000)
撚糸文(よりいともん) 
押型文 貝殻文 回転縄文
千葉県香取市城ノ台貝塚出土 個人蔵(東京国立博物館展示)


≪早期≫
早期(約1万年前)になると、土器全体に文様をつけるようになります。縄を転がすだけでなく、縄を棒状のものに巻き付けたものを転がす撚糸文や、棒状のものに楕円形や山形の彫刻をしたものを転がす押型文も登場します。撚糸文は関東、押型文は西日本に多いです。「これじゃ、置けないよ~」という尖った底をもつ土器も、この時期によくみられます。地面をちょこっと掘って埋めて使うんでしょうね。

    コメント 鮭の釣り糸なのか とすれば暦開発以前


7層目: 黒褐色土。様々な種類の縄文土器に加えて集石遺構56基、土抗3基が確認され、縄文時代早期中葉から前葉の遺跡とされる。
8層目: 桜島の火山灰(P13)を含む黒色土。前平式土器、撚糸文土器が確認された。
9層目: 暗茶褐色土。竪穴式住居跡、集石遺構、連穴土抗、前平式土器などが確認された。この層と直下の10層目との間に縄文時代早期前葉の遺構が挟まる形になっている。「国内では最古級で最大の定住化した集落」竪穴式住居52棟、このうち10軒の竪穴内の埋土は桜島噴出の火山灰(9500年前)が詰まっていた。このことから上野原台地の早期前葉には10軒程度の集落が形成されていた。日本列島最古の集落跡。石蒸し料理施設の集石39基、連穴土坑(炉穴)19基、道跡(二筋)、多数の土抗や生活跡。[3]
10層目: 桜島の火山灰(P14:サツマ火山灰)を含む黄色土。この層より下の遺跡は確認されていない。


出土品
洞窟内の堆積土は15層を数え、最上部の1層から5層までを上層、6層から15層までを下層と称する。上層・下層のそれぞれから多量の土器、石器、骨製品が出土した。時期的には、上層の遺物が縄文早期および前期、下層が草創期に属する。下層からは、かつて縄文土器の最古段階とみなされていた撚糸文土器よりさらに古い縄文草創期の土器が出土したことで、小瀬ヶ沢洞窟とともに縄文土器の編年上、重要な遺跡である[4]。

上層からは撚糸文系、貝殻沈線文系、羽状文系の土器が出土するいっぽうで、
下層からはさらに古い草創期の土器が出土している。
「室谷下層式」と称されるこれらの土器は多縄文系(押圧縄文、回転縄文など複数の種類の縄文をほどこす)である。
下層出土の土器は平底の深鉢形で、底面は隅丸方形に形成される。作り方は輪積法ではなく、板状の粘土を繋ぎ合わせて作っている。
下層出土の土器をさらに細分すると、10層から13層で出土する古段階と、6層から9層で出土する新段階に分けられる。前者が押圧縄文主体であるのに対して、後者では押圧縄文は減って回転縄文主体になっている[5]。

下層から出土する草創期の石器は、小瀬ヶ沢洞窟でみられた尖頭器は姿を消し、小型で茎(なかご)のない石鏃、掻器などの限られた種類になる。上層の石器は、磨製と打製の石斧、磨皿、砥石、石錐、石垂、石匙などが加わる[6]。

骨製品は、下層ではわずか2点検出されたのみであった。上層では刺突具、骨針などの骨製品がある。獣骨はツキノワグマ、カモシカのものが多い[7]。

上層からは早期および前期の人骨7体分が出土した。うち前期の3層から出土した女性人骨は屈葬されていた。他の人骨は破片の検出にとどまっている[8]。


縄文草創期
● 草 創 期(そうそうき) 縄文文化の黎明期(約1万~1万4,500年前)
 この時代は縄文文化の黎明期である。北海道を除く日本列島のほぼ全域で土器の使用が始まり、一部の地域では初源的な竪穴住居も作られるなど、少しずつ縄文文化的な定住社会が形成し始められた。
 土器の様式は、当初は、関東地方に盛行した撚糸文(よりいともん)土器様式までを指していた。しかし、その後の研究で、旧石器時代の影響を残す石槍などの石器群、初源期の石鏃などを含んだ隆起線文土器、多縄文系土器様式までを該当させる意見が大勢を占めつつあるが、まだ完全なコンセンサスを得るには至っていない。最近では、これよりさらに古い無文土器が存在することも示されている。研究者によっては、この土器を含めて晩期旧石器時代あるいは中石器時代と呼ぶことがある。

      縄文草創期(日本-日本-旧石器時代→縄文時代)  追加
-16500 旧石器時代→縄文時代[約16500年前-紀元前3世紀](日本-日本-)  編集
-16500   日本最古の土器 日本の土器、世界最古なの?(日本-日本-)  編集
-16000   縄文文化、世界最古の土器が作られる(日本-日本-縄文時代)  編集
縄文人は石器を新石器と進化させ、石を磨いた磨製石器を使用。
竪穴式住居、高床式倉庫の建物を用いて集落の形成(ムラ)や縄文式土器、土偶、貝塚、漆製品、装身具、農耕具(木製、石製)を作るようになった。
食料調達には弓矢を用いた狩猟(イノシシ、シカ)や漁(タイ、ボラ、マグロ、サケ、イルカ、クジラ)、採取(クルミ、クリ、ドングリ)、採集(アサリ、ハマグリ)、焼畑農耕でソバ、ムギ、アズキ、エゴマなどを栽培して果実酒も製造していた。(日本-日本-旧石器時代→縄文時代)  編集


北日本では底の尖った尖底(せんてい)土器が数多く出土しています。
①早期前半、関東地方で撚糸文(よりいともん)土器が作られます。
②その影響を受け、西日本で押型文(おしがたもん)土器が作られます。
③その押型文土器が日本海側ルートで東北地方にやってきて、日計式(ひばかりしき)押型文土器が作られます。八戸市の日計遺跡にちなみ名付けられました。
④その後、程なく、文様を施すのに貝殻が使われるようになり、貝殻沈線文土器が作られるようになりました。
⑤この沈線文様式の土器は広く影響を及ぼします。関東地方の撚糸文土器に取って変わり、東日本の沈線文土器、西日本の押型文土器と、東西を二分する文化圏となりました。


突起こそが縄文土器を縄文土器たらしめている必須の属性である。
そもそも、突起が縄文土器の歴史に登場するのは草創期の最古の土器群の中にまで遡り、新潟県室谷洞窟の多縄文系土器には明瞭な波状口緑もある。

しかし、突起と波状口緑は順調に継承、発達することはなかった。
やがて早期に入ってからも、その初頭の撚糸文系土器は一切突起を付けなかった。

中葉の押型文土器および貝殻洗線文系土器に現われた突起が後続の土器様式に継承され、それ以降縄文土器の主要な属性へと成長し続けるのであった。


   早期
(約11,000年から
  7,000年前) 
 尖底(せんてい)の深鉢などが出土します。
 土器の胴部に沈線文(ちんせんもん)や隆起線文、貝殻条痕文(かいがらじょうこんもん)などが施されます。文様として縄文(じょうもん)や撚糸文(よりいともん)が定着しました。
 口縁部は平縁(へいえん)か、緩やかな波状口縁(はじょうこうえん)を呈します。


 縄文早期の後半、撚り糸を細い棒に巻き、土器に押し付けた絡条体圧痕文、その棒を転がした撚糸文、三つ編みなどの組紐を押し付けた組紐圧痕文、縄を転がした縄文など、様々な縄で文様を付けた土器群が、北海道の広い範囲に分布することになる。これらの土器群は、北海道全体に広がりを見せた最初の土器群である。


 8000年 ―早期
doki撚糸文系土器様式が現れる。
押型文系土器様式の出現。
この時期の大きな特徴として土器の底が尖っている通称尖底土器が作られる
北海道方面では漁撈活動が活発化する。
(西日本では前期以降から外洋性漁業が活発化)


 福岡市内で確認されている最も古い土器は、無文(むもん)土器・条痕文(じょうこんもん)土器と呼ばれる土器で、大原(おおばる)D遺跡(西区)では約1万3千年前の年代値が得られています。そして、これに近い時期の刺突文(しとつもん)土器、撚糸文(よりいともん)土器などが市内の丘陵裾部を中心に出土例が増えてきています。また、土器出現期のものと類似した石器が市内数カ所で見つかっており、さらに古い土器が出土する可能性もありま


 まず土器始源期に相当する縄文草創期の土器のひとつとされる上黒岩岩陰遺跡第九層出土の土器は、長崎県福井洞穴・長野県狐久保遺跡出土の同類土器とともに細隆起線文土器として把握される。また穴神洞第八層出土の土器は、口唇部下に平行横走する細隆起線を二条、さらに口頸部に五条の微隆起線文を付す深鉢形土器で、微隆起線文土器とされる長野県石小屋洞窟・埼玉県橋立岩陰・山形県一の沢岩陰出土の土器などに対比される。県下では前者を上黒岩Ⅰ式土器、後者を穴神Ⅰ式土器とし、両者の編年的位置は、「概して前者が古いタイプで時代が下降すると口縁に平行に、口頸部には数段ほぼ等間隔に帯状に微隆起線文を付す施文が盛行する」との一般的知見に従い、上黒岩Ⅰ式土器→穴神Ⅰ式土器と編年されている。

 縄文早期初頭に位置づけられる土器は、上黒岩第九層(細隆起線文土器)と、同じく第四層(押型文土器)をつなぐ第六層出土の無文土器があげられ、上黒岩Ⅱ式と呼称する。
 縄文早期中葉の土器は、上黒岩第四層出土の押型文土器を標式とする一群の土器を総括し、上黒岩Ⅲ式土器と呼称される。中津川洞第四層出土の上黒岩Ⅲ式土器には、内面に指圧擦痕文をもつ撚糸文土器や押圧条痕文土器が伴出し、上黒岩第四層でも指圧の跡の顕著な厚手無文土器が確認されたことなどからも、瀬戸内の黄島・小蔦島式土器に対比し得る。しかしてこの指圧痕をもつ無文土器は、松山市土壇原Ⅱ縄文遺跡から一括単純遺物の様相で検出され、上黒岩Ⅲ式土器に後続し一時期を画するものかとの想定のもとに、県下では土壇原式土器との標式名が付されている。

 縄文早期後葉においては、土壇原式土器に後続し、器面全体に斜走する大型の楕円文を付す穴神第三層出土土器を標式とした穴神Ⅱ式土器が広く分布する。これは和歌山県高山寺貝塚出土の高山寺式土器に比定される。
 縄文早期終末では、口縁部の外反の顕著な押型文土器やアナダラ属の貝によって器壁の表裏に条痕を付す土器などの存在が知られているものの、なお明確さを欠きその究明は今後に残されている。


(押型文系土器、西日本・縄文早期)
一方縄文早期の西日本では、この写真のような押型文系土器がさかんに作られた。押型文とは硬いものを押し付けてつくる模様のことである。このほかに、普通の縄よりも細い撚糸を用いて文様をつけた撚糸文系土器と呼ばれるものが主に東日本で作られた。このように、縄文時代の早い時期から、土器には地域差があったわけである。


?出現期の土偶と祭祀の“かたち”
 土偶の出現は、縄文時代草創期にまで遡ります。
現存最古の土偶は、三重県粥見井尻(かゆみいじり)遺跡から出土した2個体(うち1個は頭部片)の資料(下図)で、草創期後半の無文土器から多縄文土器が作られた時期と考えられます。これは今のところ草創期に遡る唯一の例ですが、2個体とも頭部の形態が同様で、すでにこの当時から、土偶には決まった形=型式要素が定まっていたことを推測させます(原田 1998)。

 続く縄文時代早期には、三重県大鼻遺跡(下図左)、大阪府神並遺跡例(下図右)など、全体の形状は異なりますが、個体によってはそこに乳房表現を加えるという、素朴ながらも女性を表象した豊満なトルソー(胴体)に仮託した土偶が、近畿地方周辺で散見されるようになり、押型文土器様式の文化要素として定着しました。
同様な土偶はさらにほぼ同時期に、千葉県東部、千葉県と茨城県のみと言う、よりいともんけい極めて限られた地域で、撚糸文系土器に伴いながら50例程度の資料(同9?12)が発見されています。
 

土器 圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られる。
遺跡 貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝の種別はヤマトシジミが主体。狩猟とともに漁労が活発化した。最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先苅(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。人口2万100人。縄文犬を人と一緒に埋葬。屈葬。

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以下はブログからそのままお借りしました。

自由研究のマインドセット

日々の疑問を生活のスパイスに

【釣りの歴史】縄文人の釣り針に対する執念が面白い(スズキ02)

釣りをするヒトにとって、スズキ(シーバス)と言えば、河口や堤防から狙える大物で、大人気のターゲットです。

その証拠を裏付けるように、釣りのコミュニティーサービスに投稿された魚種を調査した結果では、1位にスズキ(シーバス)が輝いています(ウミーノ株式会社、2019年発表)。2位アオリイカ、3位メバルを大きく離しての1位ですので、人気が強いという事が分かります。

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この記事では、そのスズキがいつから我々のターゲットであったかに注目しまして、太古の釣りとその道具に触れてみたいと思います。

縄文時代貝塚

現在、日本の歴史の中で最も古いのは縄文時代石器時代も含める)ですが、この時代にも勿論スズキはいました。

この時代の集落は、北海道から九州まで全国で確認されていて、生活の証としての貝塚(貝殻の捨て場)という形で発見されています。

これら貝塚では、貝殻の化石だけでなく、スズキ・クロダイ・マダイ・ボラなどの骨が多数見つかっています。さらに、シカの骨で作った槍先や釣り針も確認されていますので、彼らが漁業活動を行っていたのだろうと考えられています。

釣り針をつくるなんて、縄文人の想像力はすさまじいものがあると思いますが、

それでは、その釣り針を見てみましょう。

縄文時代の釣り針

下の図は全国で見つかった釣り針の一覧となります。

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1) 縄文時代における釣り針の研究 引用:渡辺誠(昭和41年)人類誌 ZZ LXXIV-1,    2) 実際の釣り針の写真 引用:三内円山遺跡HP,    3) 典型的な現在の釣り針(伊勢尼)

たまに独創的な形の釣り針もありますが、すでに現在の形が出来上がっています。

 

現在の釣り針には、獲物を逃さないように針先にカエシがあり、釣り糸を結ぶためにチモトがあるのですが、26番の針などは現在でも使えそうな出来栄えです。

個人的に気になったものに関して以下に記載します。

18番と26番のカエシ

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カエシの位置が外向きと内向きの違いがあります。釣り針としての機能には大きく変わらないと思われますが、安全性・扱いやすさでは確実に内向きの方が高性能です。カエシを内向きに作るためには細かい石器が必要になりますので、高い技術が必要になります。

20番の下部の突起

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釣り針の下部に謎の突起があります。この部分は釣り針に魚が掛かった際に、最も力がかかる部分で、想定外の大物が掛かった際には、ここがポキン通れてしまします。

それを防止するために、この部分を補強してある訳です。試行錯誤の過程が伺えます。

24番のネム

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ネムリ針とは、針先が内側を向いている針の事を言います。この針のメリットとして、魚が針を飲み込んでも、口の深い位置でフッキングしないという事が挙げられます。つまり、針を回収しやすいという事です。また、付けた餌が外れにくい、根がかりしにくいというメリットもあります。

9番の環状のチモト

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10cmを超える大きな釣り針です。針の上方にある穴は糸を通す穴で、現在の大型の針と同じ作りになっているのも非常に興味深く感じます。

実際に貝塚からは1mを超えるマグロの骨も発見されていますので、彼らがターゲットによって釣り針を変えていた事も伺えます。

38番のダブルフック

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ルアーが開発されたのが1800年代と言われていますが、すでにトリプルフックの原型が縄文時代に存在したとしか思えません。発案者は新進気鋭の釣り針デザイナーとして注目されたのではないでしょうか。

26番の遊び心

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上で紹介した26番です。一見、実用的ですが、実はチモトが骨の形をしています。鹿の骨を削って作っていながら、さらに骨の形を削り出すという遊び心が憎い一品です。

35番の強すぎる想い

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カエシが両サイドにある事に加え、外側のカエシが2重です。また、折れない工夫の突起もあり、一度かけた魚は絶対逃さないという強い想いが伝わってきます。しかし、針のふところに占めるカエシの割合が大きすぎて、貫通力に劣ると思われ、実際には釣れなかったのではないでしょうか。

 

現在の釣り針は、釣り具メーカが開発し、フィールドテストを繰り返し、商品化されるというステップを踏んでいます。それと同じ事が縄文時代にも行われていたのかと思うとつくづく日本人の勤勉さには頭が下がります。

 


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