冬至の日の出位置は、計算による他ないと思うが、
金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の位置からは、太刀岡山の左脇から出てくるように見える。
太刀岡山が瘤のようになっていて、この位置で止まる太陽が、更に南に向かって転げ落ちて寒くなってしまわないようにしているかのように、まるで輪留めのようになっていた。
縄文人のように、日の出を毎日見るのでは無く、現代の暦の暦日に従い、日の出を見に行っていたので、大寒は冬至から30日目に見た。
この日の出の位置から見て冬至から30日でここまで来ているので、あと立春まで15日だからその半分の位置、ピークとの中間かせいぜいもう少しピーク寄りの辺りが、日の出位置なのだろうと、遅考もせず即断してしまった。
その上更にこの年の立春は、現代天文学からはこれまでの2月4日から2月3日24時頃というので、そんなことを縄文時代に分るはずが無いので、これまで通りの2月4日のはずで、その日に日の出を見に行けばいいやと高をくくっていました。
ところが2月4日に日の出を見たとき、日の出位置はピークを過ぎて左に位置していた。
とにかくどんなものか様子が分れば良やという、ずさんな計画だったものですから、肝心の所を見逃してしまった。
と言うわけで、縄文人の宇宙観は舐めては遺憾と思い知らされたわけでした。
金生遺跡大配石のランドスケープ
金生遺跡の立地景観
図はお借りしました
2022.09.10
冬至の祭礼
金生遺跡で初めて冬至の日の出を見たとき、東の配石先端に立ち西に向いた時に配石で見えたものは
配石の右側に石が置かれていない空間、芝生の部分があるので、縄文人達はここに座って冬至の日の出を待ったものだろうと考えた。
冬至の日の出 右にある瘤の手前 これは太刀岡山付近になる
縄文人の整列 紅いマークで示す
冬至は配石で限界を示している 大配石のデザインの基軸
冬至の日の出
冬至の日の出位置には、公園整備として巨大石棒が建てられてしまい、日の出の時の初光は配石に射さないよう巧妙に配置されていた。この遺跡が冬至には関係ないのだとするためだったのだろうか。遺跡と大配石の価値はこれにより台無しにされてしまっている。
大寒は標示は無い
立春は石棒で標示している