2024.11.05 神子柴型石斧の石材産地など追加しています。
数詞の発生は何時からと考えることが出来るのだろか
持ち物を数える
Overmannは2013年の研究11で、現代の世界各地に分布する33の狩猟採集社会に関する人類学的データを分析した。その結果、上限が「4」程度の単純な記数法を持つ社会では、武器や道具や宝飾品などの所有物がほとんどないことが多いことが分かった。
これに対して、上限が「4」よりもはるかに大きい精密な記数法を持つ社会は、常に所有物が多かった。
このことから彼女は、社会が精密な記数法を発展させるためにはさまざまな物を所有している必要があるのではないかと考えるようになった。
複雑な記数法を持つ社会には、記数法の発達過程を解き明かすのに役立つ手掛かりがあった。Overmannは、そうした社会の多くが、5進法、10進法、20進法のいずれかを用いていることに気付いた。
これは、多くの記数法が、指を使って数を数えるところから始まっていることを示しているように思われた。
Overmannは、この指数えの段階が重要だと主張する。彼女は、オックスフォード大学(英国)の認知考古学者Lambros Malafourisが10年ほど前に提唱した「物質的関与論(material engagement theory;MET)」の体系を支持している12。
METは、心は脳だけに収まるものではなく、道具や指などの物へと拡張されるとしている。
この拡張により、概念は物質的な形を伴って実現するようになる。
数を数えることで言えば、心が数を概念化するときには指も含まれていて、これにより数字は触知可能なものになり、足し算や引き算がしやすくなるというわけだ。ーーーーーここまでは引用しました
図 矢出川と中ッ原の道具
野辺山にあるこれらの遺跡では、ここに残されていたものは、どのような経緯で残されていたのか。
持ち物全てが残されていたとすれば、ここで死亡して残したと云うことなのだろうか。
狩りが上手く行かず獲物が無いのでこの場で餓死していたとなるのかも。
移動して残されたとすれば、貴重品は持ち去っていた筈だから、残されていたものは棄てていったものと成るのだろうか。
その問題はあるが、とりあえず彼らが持っていたものだとすれば、矢出川では数えるほどの貴重品とは見えないようなものばかりと思える。中ッ原では三つほどは貴重品とみてもいいかと思う、その他のものはその場の必要に応じて作っても間に合いそうな道具である。
ということで、ここでは持ち物として数えるとしたら3-4個くらいで、1,2,3,4 位で済む。
このレベルでは数詞は必要とならないのでは無いだろうか。
図 神子柴遺跡の石斧と尖頭器
神子柴ではこのような立派な石器が残されていた。何故ここにこんなものが残されていたのか、今の所合理的説明は出来ていないようだ。居住していたような遺物は無いようなので、取引のための場所では無いかとの想定もある。このようにこれだけ貴重そうな石器があるとすれば、取引があったとすれば、ここでは少なくとも10程度の数詞の存在は、想定できるのでは無いか。
図 整列させると
ここに集結した石器は次の図のように各地から集結したものとされている。
図 石材の産地から
神子柴の石器はこのように周辺各地から運ばれていた。
両面加工尖頭器作りには、石材ロスが膨大となるため、各地の石材産地で、製作専門家が作ったものが、運ばれてきていたとされる。
図 八風山両面加工尖頭器製作所
この時期には各地の石材産地に製作場所があったようだ。主なものは黒曜石、珪質頁岩、下呂石など。
図にある八風山製作所では、製品は全て持ち出されていて、製作途中に折れて製品と出来無かったもの一つだけが見付かり、製作場所であることが確定されていた。
図
ということで、これ程の立派な石器を製作して、運び出し、神子柴遺跡に集積し、その後取引して、各地の使用場所、つまり狩猟場所に運ばれていって狩人に渡されたことが想定できるかもしれない。
図 神子柴型石斧の石材産地
神子柴型石斧は近くの石材産地の製作場所で作られ、神子柴遺跡に運ばれて、その後北海道を除く全国的に運ばれていたようだ。
このような状態からは、石器製作から取引には、10-20程度の数詞は使われていたかも知れない。
この時期はまだ石鏃が無い時期で、弓矢猟が発明される以前である。土器も無いので20000年前頃のことである。
日本列島ではこの頃には数詞は既に発生していたのでは無いだろか。
図
図はお借りして補足しています