大谷石で有名な石材の街、大谷にやってきました
日露戦争の記念碑
旧 大谷公会堂
2004年に国登録有形文化財に指定された。
正面には、建築様式などの解説を記した碑があり、西洋の建築様式と大谷石の融合を観賞できる貴重な建物です。
地元産大谷石を構造躯体に用いた公会堂建築。正面10m,奥行22m
所有している宇都宮市の使用目的は、「倉庫」のままであり、長期間に渡り実質的に利用されることもなく・・
大谷景観区の入口にある老舗の石材店 屏風岩
大谷街道から南の少し入った場所に、戸室山大谷地下発動機工場の入口がある。普段は立ち入り禁止
東の荒針地区から見た戸室山。山頂に神社がある。この山の地下に戦時中工場が・・
大谷発動壊工場の歩み 1944~1945年
1944.11.24 米空軍武蔵製作所第1回空襲 死者57名を出す。
1944.12.武蔵製作所・全力をあげて地下工場への疎開開始・移転先の選定をいそぐ.
1945 1.1 大谷工場の設立・整備工事開始(トンネルの建設・敷地の整理など)
2.23 政府「工場緊急疎開要綱」を閣議決定。
2~3 工作機械の大谷地下工場への搬入・従業員の移転進む
3.31 発動機生産の開始,(大谷地下工場の主要部完成)
4.11 中島飛行機全社は軍需省に接収され,第一軍事工廠となる。大谷工場は第14製造工廠となる。工場長・長沢堆次
5 大谷地下工場における発動機部品の生産本格化。
6 大谷地下工場における最初の発動機製品の完成(月産300予定ゝ
7.12 宇都宮都市部への空襲・以後1週間従業員の欠勤率20%となる。
8 終戦までに,新製品11,修理完成品55,計66を生産・納入。
8.15 ポツダム宣言受諾・終戦。
9 末日 米戦略爆撃調査団の巡視,終戦により3工場閉鎖,解散となる。
1)工場敷地としての選定理由
複雑な地形に富んだ日本列島の数ある候補地の中から,武蔵製作所関係者が宇都宮市西部に位置する大谷・荒針地区を
地下工場の敷地として選定した 理由は次のような点にあったものと制定される。
① 大谷荒針地区内には蜂の巣のように大谷石の採石場が分布し,広大な地下洞窟がすでに完成していたこと。
② 採石場を工場用地として利用すれぼ,大谷石の石質が軟かいため,容易に予定地を拡張改変することが可能であったこと。
③ 予定地が宇都宮市街から西方約8キロ以内と比較的近く、労働力や物質を調達しやすかったこと。
④ 交通面から見れぼ,大谷街道を利用してのトラック輸送や東武鉄道荒針線による車輌輸送により,原材料部品などの物資撒入
や完成品の輸送が便利であったこと。
⑤ 石材業の発達により大規模な集落が形成され,武蔵製作所から移転してくる従業員の分宿が可能であったこと。
⑥ 低い丘陵地帯が,地下予定地の上部につづき岩かぶりの樹林のヴエールにより米軍機から地下工場の所在を隠蔽でき得る事
戦後、米戦略爆撃調査団の巡視のおり撮影された写真 エンジンのシリンダーブロックを差し込む穴が開いた部品が
積まれている
上記のような理由により,同じ立地条件に着目した宇都宮製作所と共に武蔵製作所関係者は大谷荒針地区に移転を
決意したものと思われる。その結果、前述のように発動機工場が戸室山を中心として計4か所,機体工場が御止山
を中心として計9か所,‘地区内に建設され,大地下工場群が1945年春以後、出現するに至ったのである。
なお中島以外の企業でも本地区周辺を工場移転先候補地として着目した会社が多く,1945年8月までに宇都宮軍需管理部へ
,陸海軍を通じて沖電気や東芝など多くの企業が地下工場建設を希望し,その候補地として赤岩山麓・細野ダム周辺・
雲雀が鳥屋付近の地域が物色された。 しかし間もなく終戦となり.いずれも実現をみるに至らなかった。
「文献は資料より」
日露戦争の記念碑
旧 大谷公会堂
2004年に国登録有形文化財に指定された。
正面には、建築様式などの解説を記した碑があり、西洋の建築様式と大谷石の融合を観賞できる貴重な建物です。
地元産大谷石を構造躯体に用いた公会堂建築。正面10m,奥行22m
所有している宇都宮市の使用目的は、「倉庫」のままであり、長期間に渡り実質的に利用されることもなく・・
大谷景観区の入口にある老舗の石材店 屏風岩
大谷街道から南の少し入った場所に、戸室山大谷地下発動機工場の入口がある。普段は立ち入り禁止
東の荒針地区から見た戸室山。山頂に神社がある。この山の地下に戦時中工場が・・
大谷発動壊工場の歩み 1944~1945年
1944.11.24 米空軍武蔵製作所第1回空襲 死者57名を出す。
1944.12.武蔵製作所・全力をあげて地下工場への疎開開始・移転先の選定をいそぐ.
1945 1.1 大谷工場の設立・整備工事開始(トンネルの建設・敷地の整理など)
2.23 政府「工場緊急疎開要綱」を閣議決定。
2~3 工作機械の大谷地下工場への搬入・従業員の移転進む
3.31 発動機生産の開始,(大谷地下工場の主要部完成)
4.11 中島飛行機全社は軍需省に接収され,第一軍事工廠となる。大谷工場は第14製造工廠となる。工場長・長沢堆次
5 大谷地下工場における発動機部品の生産本格化。
6 大谷地下工場における最初の発動機製品の完成(月産300予定ゝ
7.12 宇都宮都市部への空襲・以後1週間従業員の欠勤率20%となる。
8 終戦までに,新製品11,修理完成品55,計66を生産・納入。
8.15 ポツダム宣言受諾・終戦。
9 末日 米戦略爆撃調査団の巡視,終戦により3工場閉鎖,解散となる。
1)工場敷地としての選定理由
複雑な地形に富んだ日本列島の数ある候補地の中から,武蔵製作所関係者が宇都宮市西部に位置する大谷・荒針地区を
地下工場の敷地として選定した 理由は次のような点にあったものと制定される。
① 大谷荒針地区内には蜂の巣のように大谷石の採石場が分布し,広大な地下洞窟がすでに完成していたこと。
② 採石場を工場用地として利用すれぼ,大谷石の石質が軟かいため,容易に予定地を拡張改変することが可能であったこと。
③ 予定地が宇都宮市街から西方約8キロ以内と比較的近く、労働力や物質を調達しやすかったこと。
④ 交通面から見れぼ,大谷街道を利用してのトラック輸送や東武鉄道荒針線による車輌輸送により,原材料部品などの物資撒入
や完成品の輸送が便利であったこと。
⑤ 石材業の発達により大規模な集落が形成され,武蔵製作所から移転してくる従業員の分宿が可能であったこと。
⑥ 低い丘陵地帯が,地下予定地の上部につづき岩かぶりの樹林のヴエールにより米軍機から地下工場の所在を隠蔽でき得る事
戦後、米戦略爆撃調査団の巡視のおり撮影された写真 エンジンのシリンダーブロックを差し込む穴が開いた部品が
積まれている
上記のような理由により,同じ立地条件に着目した宇都宮製作所と共に武蔵製作所関係者は大谷荒針地区に移転を
決意したものと思われる。その結果、前述のように発動機工場が戸室山を中心として計4か所,機体工場が御止山
を中心として計9か所,‘地区内に建設され,大地下工場群が1945年春以後、出現するに至ったのである。
なお中島以外の企業でも本地区周辺を工場移転先候補地として着目した会社が多く,1945年8月までに宇都宮軍需管理部へ
,陸海軍を通じて沖電気や東芝など多くの企業が地下工場建設を希望し,その候補地として赤岩山麓・細野ダム周辺・
雲雀が鳥屋付近の地域が物色された。 しかし間もなく終戦となり.いずれも実現をみるに至らなかった。
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