沢庵 画像お借りしました
江戸時代初期の事件でわかりにくいのが、紫衣(しえ)事件かと思います。
紫衣勅許、つまり天皇が重要寺院の住職を任命するのを幕府が任命することとしたことにより、大徳寺、妙心寺の住職が幕府に訴えた事件です。
これらの寺院は鎌倉、南北朝時代の創建のころから、天皇が住職を任命することになっていました。また、どちらも大応国師南浦紹明(なんぽじょうみょう)の派下の僧だけが住んだ寺です。そのために五山を去って、林下の寺として存続しました。
しかし、江戸幕府は寺社や公家の法度(きまり)をもうけて、それまでの権威を幕府に集めようとしました。
大徳寺の訴えの中には沢庵和尚も含まれていました。沢庵は幕府が住職になる資格を年数などの条件を出したことに大いに反発しました。
この訴えに対して、幕府は沢庵や玉室に奥州への配流を命じました。しかし、一緒に訴えたはずの江月和尚は訴えを取り下げたとして罰しませんでした。
そのため江月和尚は庶民から卑怯者となじられました。
雨ふれば沢の庵(沢庵)も玉むろ(玉室)も流れてあとににごり江の月(江月)
玉の室、沢の庵もながされて みそかすばかり残る江の月
おそらくは沢庵らが取り下げたか、幕府が非難の対象を江月に向けるための策であった気がします。
数年後、沢庵は奥州から呼び戻されますが、京都へ戻るのはその二年後でした。
徳川家光は沢庵の禅風を尊敬して、のちに品川東海寺を開いて招きます。
しかし、後水尾天皇は自ら天皇を退位してしまいました。
幕府が朝廷や寺社を統制する経緯の事件でした。
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