お寺を知りたい!

なにげないことや、お寺の日常から行事・仏事マナーまで。
お寺をもっと身近に♪

「上げ法事」とは

2018年02月20日 | 仏事
境内の紅梅がキレイに咲いています。

華の世界では、梅は2月の花とされています。





定秀寺の菩提樹(ぼだいじゅ)はインド原産のものですので、日本の寒さは厳しいようです。

 定秀寺のインド菩提樹について




本来は常緑樹ですが、寒さで葉が茶色くなってしまっています。

しかし、きっと夏にはまた新たな緑の葉をつけてくれることでしょう。






上げ法事は「お寺でする法事」のことです

さて、時々聞かれることがあるのですが、「上げ法事(あげほうじ)」という言葉をご存知でしょうか?

答えから言いますと「上げ法事」とは「お寺でするご法事」のことです。

お寺に参上し、ご法事を勤めることです。





「え?…三十三回忌や五十回忌の、弔い上げの最後の法事のことを言うのでは?」



そう思った方も多いのではないでしょうか。

インターネットで「あげ法事」と検索すると、「弔い上げの法事のこと」というのが多数でてきます。
弔い上げ(とむらいあげ、といあげ)というのは浄土真宗ではあまり馴染みの無い言葉です。
世間一般的には、「三十三回忌や五十回忌を目処に、この先の法事はもう勤めませんので、これでお終いにします」という意味合いであろうかと思います。



弔い上げというのは、「私たちの都合」でのものの考え方です。
そもそもご法事は「いつまで勤めなければならない」とかそういうことを考えるものではありません。
その時その時になって、「あぁ、もうお父さんの十七回忌か」と、その時その時で亡き方を偲ぶご縁です。


地域的なものもあり、いろいろな捉え方、考え方もありますが、少なくとも浄土真宗では、弔い上げという考え方はありません。









 ※少々長い文章ですが、大切なことを書いてあります。どうぞお読みください。


上げ法事 = お寺でするご法事 = 最も丁寧なお参り

なぜ、「上げ法事」が「弔い上げ」と言われるようになったのか。
諸説ありますが、私は次のように考えます。

(以下、たとえ話)

①昔、A蔵さん、息子B男さん、孫C郎さんがいらっしゃいました。
B男さんは仏事ごとに真摯に向きあう、篤信者でした。
亡くなったA蔵さんの三十三回忌のころ、B男さんには、「もう親父(A蔵)の三十三回忌か。年齢的にも次の五十回忌は私は勤めることができんだろうから、『私にとっての最後』として親の三十三回忌は、どうか最後にお寺の如来さまの前で勤めさせてもらえませんか。」という篤い思いがありました。(法事は自宅で勤めるのが多かった)

②やがてB男さんも亡くなり、息子のC郎さんが毎年B男さんの法事を勤めるようになっていきます。

③B男さんの三十三回忌を迎える頃、C郎さんは「そういえば、じいちゃん(A蔵)の法事は三十三回忌までだったな。あの時はたしかお寺で法事をしたなぁ。じゃあ親父(B男)の法事もこの三十三回忌でおしまいなんだな。お寺で法事をすればいいんだな。」と考えます。

④こんな具合で、「法事のお終いは三十三回忌までで、お寺でするもの」と勘違いされるようになり…

⑤「上げ法事とは、三十三回忌で弔い上げのこと。これで終わり。」という意味に捉えられるようになってしまったのではないでしょうか。


↑これは私の勝手な想像です…。

でもこんな風にきっと、「私にとっての最後になるだろうから、丁寧に上げ法事(お寺で法事)をしよう」というのが、「上げ法事=三十三回忌の弔い上げ」といわれるようになった理由なんじゃないかと思います。



もともと、「◯回忌で、この人の法事は終わり」という決まりはありません。








「上がる」という言葉

ところで、お寺のことや仏事などでは「上がる・上げる」という言葉がよく使われます。

・お寺の本堂に上がる。
・ご本山にお参りすることを「上山する」といいます。
・お供えものを仏さまにお上げする。(上供する〈じょうぐ〉)
・お経を上げる。
・お焼香をお上げする。(頭に頂くことではなくお香を焚いてお供えすること)


これらの「上がる」というのは尊敬語のひとつです。
お寺は、古くから山や高い所にあることが多いです。(寺基移転などで町中に移ったお寺もたくさんありますが。)
「上がる」というのは高い場所という位置的なものとして、(あそこの山にある)お寺に上がる、と用いられていたとも考えられますが、どちらかというと、尊敬の意味を込めての「上がる」という意味だと言われています。



東京に行くことを上京するといいますが、これは天皇陛下の住まわれている都に参上するという意味の尊敬語(謙譲語)であると言います。
(ちなみに京都に向かうことは上洛〈じょうらく〉といいます)
同じようにご本山へ向かうことを「上山する(じょうざん)」といいます。



「上げ法事」というのも、「お寺へ参上する」というところからその意味はきていると考えられます。










間違った情報

インターネットの情報サイトやQ&Aなどで、ひどいものの中には…
「上げ法事は弔い上げのことで、お寺で、親戚は呼ばずに兄弟や身内だけでする法事。会食や茶の子(参列者に配るお志のこと)は無し。簡単に勤める法事」
と紹介されているものがありました。

もちろんこれは間違った情報です。


「上げ法事は、お寺で簡単にする法事。粗末な法事。」と紹介されているのです。
これはあり得ないことです。


むしろ「お寺で勤める法事は、最も丁寧なもの」であるべきものです。









「上げ法事」は「弔い上げ。三十三回忌の法事。これでお終いにする法事」という意味ではありません。

あくまでも「お寺で勤める法事」のことで、そこには「お寺の如来さまの前で是非とも勤めさせて下さい」という、篤い心があるものです。



決して粗末に勤めるものではありません。

お寺にお参りすることが粗末でもありません。

これでお終い、と勤めるものでもありません。



なにも、盛大に法事を勤めましょうという話ではありません。

緊張してかしこまってお参りしましょうという話でもありません。




どうぞ、お寺にお参りする際には、丁寧な気持ちでお参り頂きたいものです。

皆さんがお元気なうちは、三十三回忌も五十回忌も、そのご縁を大切にお参りください。






50回忌や100回忌


五十回忌や百回忌ともなると、「顔も名前も知らない人の法事、しなくちゃいけないんでしょうか?」と尋ねられることがあります。

あなたが今ここにあるのは、50年前、100年前に先立って往かれた多くの先人方がいらっしゃってくださったからこそです。

父と母がいて、その父と母にもそれぞれ父と母がいて、それが無限に続いていき、そのうちのたった一人でも欠けていれば、この私は生まれえることはなかったのです…。





五十回忌、百回忌を必ず勤めましょうね!という話でもないんです…。

「義務的に、いつまで法事をしなくてはいけない」と考えるのではなく、あなたがお元気なうちは、可能なかぎり、そうしたご先祖さま方のご法事のご縁を大切にしていただきたいのです。

「あぁ~、三十三回忌終えたからやっと終わった~」と終わりを喜ぶのではなく、その都度その都度、ご法事のご縁を喜んでいく、そんな人生を送っていくことを心より念じております。




余談ですが…
あるお寺さんのご門徒さんのお家では、350回忌の法事を勤めたところがあると聞きました。
もちろん顔も名前もわからない方の法事です。
でも、きっとその方を初代として、そこのお家(一族)は始まったのでしょう。
その方が亡くなってから350年。つまりその一族が350年以上も絶えず繋がっているという、ひとつの証として、誇りとしてご法事を勤めておられるのでしょう。
つまり、お祝いなんです。ご法事も実はお祝いごとでもあるんです。
家族のつながりを感じていただき、仏さまの教えに出遇わせていただくという喜びのご縁なのです。








梅の花




ところで、今年の冬は各地では大きな災害となるほどの寒さ、大雪でした。
松山では有り難いことに、大雪になることもありませんでした。

しかし、「これだけの寒さだったにも関わらず」、梅の花はキレイに花を咲かせました。





…と、思っていたら違うんですね。





梅の花には、「寒さが必要」なんだそうです。



夏につけた芽が休眠期間を経て、春に花を咲かせます。
寒さが必要というのは、間違って秋に目を覚まして花を開かないように、ある程度の気温まで下がらないと目が覚めないのだそうです。
雪の降るような真冬の寒さが続いて、ようやく目を覚ました後に少しずつ温かくなっていくと、梅はその花を咲かせていくのです。









昔、この話を教えてもらった時には、とても感動を覚えました。

…綺麗な花を咲かせていくためには、寒い冬が必要である…。

そんな梅の花からは大切なことを教えられるものです。





暖かいだけであれば暖かいことの「良さ」には気づきにくいものです。
寒い冬があるからこそ、春の訪れを喜びます。

幸せであるということは不幸という現実があるからこそです。
もっと言えば、幸せであると感じることができるのは、嫌なこと、辛いことや悲しいことを経験してきたからこそではないでしょうか。

受験で合格することが嬉しいのは、不合格という現実があるからこそです。
全員合格するのであれば、合格の喜びはそこには感じられないものです。

生きること、命あることの尊さとは、実は、死があるからこそです。
もし死というものが存在しなければ、命のありがたみはありえません。






愛する人との別れは言いようもなく悲しく、辛いものです。

その現実から目をそむけ続け、亡き人の死を無駄にしてしまうのはなく、

その現実を通して様々なことに気づかせて頂く、教えて頂くご縁のひとつが「ご法事」や「葬儀」ではないでしょうか。









人生「良いこと」ばかりではありません。

嫌なこと、辛いこと、悲しい出来事にも出会っていかなければなりません。



しかし、不都合なものに出会ってこそ、その先にある喜びに出会える、気付いていくのではないでしょうか。


梅の花と同じように、寒さもまた、私たちにとっても必要なものなのかもしれません。






(ホームページ内の日記帳より転載)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« お内陣のおみがき | トップ | 初参式の看板をDIY »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仏事」カテゴリの最新記事