今週に発売された雑誌「BRUTUS」で
表紙を美しい言葉として、言葉をテーマに扱っている。
雑誌「BRUTUS」は、毎回特集が違っていて、
そのテーマに合う表紙や、特集記事を組んでいる、一風変わった雑誌です。
雑誌「BRUTUS」の特集の最初のページで
こんな風に書いてある。
ケータイやパソコンのなんだか無機質なコミュニケーションが
圧倒的に、増えたせいか、
文字が表す表面的な意味しか伝えられない
「痩せた言葉」が
増えてしまったようだ。
その反動か、今僕らは心に深く響く
「美しい言葉」を
これまで以上に、欲するようになってきた。
(「BRUTUS」 2009年11月1日号 美しい言葉より)
大学に入ってから、いや読書が嫌じゃなく、好んで読むようになってから、
たまに、胸にストンと落ちる言葉があったりする。
いつから、自分も「言葉」に惹かれるようになったのだろう
幼稚園のころ・・・間違いなく、ほぼアニメくらいしか
影響されていない気がする。
ゲームをしていても、キャラクターはしゃべるわけではないので、
たいして、このころは、胸にストンと落ちる言葉は受けていない。
小学生のころ・・・漫画に熱中した時代だった。ゲームの攻略本も大好きだった。
だいたいよく読む本はボロボロになることが多かった。
小学校の高学年くらいだろうか、通信簿に書かれる先生の
メッセージが、何て書いてくれているかなぁと、
5段階評価と合わせて、気にしていたように思う。
でも、はじめてストンと胸に響いたのは、
卒業式にもらった担任からの手紙だった。
5、6年と担任を持った先生であり、手紙に書かれている言葉と、
普段の先生とが、全然、結びつかなくて、でも、手紙に書かれているのは、
短い言葉だけど、先生にしか書けない言葉で・・・と
何度も読み返したい言葉に出会ったのは、その時が、はじめてだったように思う。
中学生・・・・まだ、漫画を読んでいたころであり、少しずつ音楽の歌詞にも
惹かれるようになった。
Mr.Childrenのはじめて買った「Discovery」のアルバム
I’ll beの曲が、1番好きで歌詞も今でも気に入っている。
中学2年、3年と、担任を持ってくれた先生は、
「学級通信」を出すのが、好きな先生だった。
先生の学級通信が配られると、みんな親以上に、内容を読んでいたんじゃないかと。
先生の最後の学級通信は、
ある1つの詩のようなもので締めくくられていた。
先生の最後の学級通信から、
数年後、大学2年の講義で、むのたけじのたいまつというものに出会った。
先生の学級通信にのっていたのは、むのたけじ「たいまつ」の
1編の詩だった。
今日は、その詩を抜粋して載せさていただく。
1人の人間が生涯にやれることは、1つのことです。
いろいろのことをやって器用にやってのけるように見える人でも、
1つのことをさまざまな形でやっているのです。
1つのことすらやりおおせないで朽ちていく私たちが、
あまりに多いではありませんか。
才能とか素質とかいわれるものの大小、高低にすこしばかりの違いは
あろうと、どんな人にだってその人でなければやれない仕事、
その人にこそふさわしい仕事が、地上に1つは必ず残されています。
それに気づくことが出発です。
その発見は、鮮明な表現をとるより、「何となくそうしたい」とか、
「ひそかにねがう」とか、ごくつつましい形であらわれることが多いようです。
ですから、道は決まっています。なんとしてもやりたいと自分で思うこと、
どうしても自分がやらねばならないとおもうこと、
それを万難とたたかってもやりなさい。それがあなたの仕事です。
(むのたけじ 詩集 たいまつⅠ より 抜粋)
論理的に文章を読んでいるかといったら、毎度毎度
教授に怒られるほど、自分は、まだまだ読めていないことが多いです。
それでも、自分の感性に響く言葉や、あ、こんなこと言っていたんだ
という時、言葉は胸にストンと落ちる気がします。
みなさんは、どんな言葉が、胸にストンと響きますか?
秋の夜長に、考えてみてはいかがでしょうか?
表紙を美しい言葉として、言葉をテーマに扱っている。
雑誌「BRUTUS」は、毎回特集が違っていて、
そのテーマに合う表紙や、特集記事を組んでいる、一風変わった雑誌です。
雑誌「BRUTUS」の特集の最初のページで
こんな風に書いてある。
ケータイやパソコンのなんだか無機質なコミュニケーションが
圧倒的に、増えたせいか、
文字が表す表面的な意味しか伝えられない
「痩せた言葉」が
増えてしまったようだ。
その反動か、今僕らは心に深く響く
「美しい言葉」を
これまで以上に、欲するようになってきた。
(「BRUTUS」 2009年11月1日号 美しい言葉より)
大学に入ってから、いや読書が嫌じゃなく、好んで読むようになってから、
たまに、胸にストンと落ちる言葉があったりする。
いつから、自分も「言葉」に惹かれるようになったのだろう
幼稚園のころ・・・間違いなく、ほぼアニメくらいしか
影響されていない気がする。
ゲームをしていても、キャラクターはしゃべるわけではないので、
たいして、このころは、胸にストンと落ちる言葉は受けていない。
小学生のころ・・・漫画に熱中した時代だった。ゲームの攻略本も大好きだった。
だいたいよく読む本はボロボロになることが多かった。
小学校の高学年くらいだろうか、通信簿に書かれる先生の
メッセージが、何て書いてくれているかなぁと、
5段階評価と合わせて、気にしていたように思う。
でも、はじめてストンと胸に響いたのは、
卒業式にもらった担任からの手紙だった。
5、6年と担任を持った先生であり、手紙に書かれている言葉と、
普段の先生とが、全然、結びつかなくて、でも、手紙に書かれているのは、
短い言葉だけど、先生にしか書けない言葉で・・・と
何度も読み返したい言葉に出会ったのは、その時が、はじめてだったように思う。
中学生・・・・まだ、漫画を読んでいたころであり、少しずつ音楽の歌詞にも
惹かれるようになった。
Mr.Childrenのはじめて買った「Discovery」のアルバム
I’ll beの曲が、1番好きで歌詞も今でも気に入っている。
中学2年、3年と、担任を持ってくれた先生は、
「学級通信」を出すのが、好きな先生だった。
先生の学級通信が配られると、みんな親以上に、内容を読んでいたんじゃないかと。
先生の最後の学級通信は、
ある1つの詩のようなもので締めくくられていた。
先生の最後の学級通信から、
数年後、大学2年の講義で、むのたけじのたいまつというものに出会った。
先生の学級通信にのっていたのは、むのたけじ「たいまつ」の
1編の詩だった。
今日は、その詩を抜粋して載せさていただく。
1人の人間が生涯にやれることは、1つのことです。
いろいろのことをやって器用にやってのけるように見える人でも、
1つのことをさまざまな形でやっているのです。
1つのことすらやりおおせないで朽ちていく私たちが、
あまりに多いではありませんか。
才能とか素質とかいわれるものの大小、高低にすこしばかりの違いは
あろうと、どんな人にだってその人でなければやれない仕事、
その人にこそふさわしい仕事が、地上に1つは必ず残されています。
それに気づくことが出発です。
その発見は、鮮明な表現をとるより、「何となくそうしたい」とか、
「ひそかにねがう」とか、ごくつつましい形であらわれることが多いようです。
ですから、道は決まっています。なんとしてもやりたいと自分で思うこと、
どうしても自分がやらねばならないとおもうこと、
それを万難とたたかってもやりなさい。それがあなたの仕事です。
(むのたけじ 詩集 たいまつⅠ より 抜粋)
論理的に文章を読んでいるかといったら、毎度毎度
教授に怒られるほど、自分は、まだまだ読めていないことが多いです。
それでも、自分の感性に響く言葉や、あ、こんなこと言っていたんだ
という時、言葉は胸にストンと落ちる気がします。
みなさんは、どんな言葉が、胸にストンと響きますか?
秋の夜長に、考えてみてはいかがでしょうか?
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