秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション
命令一下将に出征せんとする兵士の行動 東京に於ける軍隊の民家宿泊の光景
開戦後に於ける出師準備の光景
秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
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樺山臺灣総督 水野民生長官 角田少将及生蕃男女の記念撮影
樺山 資紀(かばやま すけのり、天保8年11月12日(1837年12月9日) - 大正11年(1922年)2月8日)は、
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、陸軍少将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。薩摩藩士・橋口家
の三男、政治的な問題により樺山家の養子になる。
警視総監(第3代)、海軍大臣(第2代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、
内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。
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秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
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臺灣白冷隘勇監督所に蕃界踏査員の一行は土目ビョンボツケ以下十二名の歓迎を受く
日清戦争後,下関講和条約第2条23号による台湾省全部の日本領有決定に
先立って,全権大使李鴻章は・・略・・と述べ,台湾統治の困難を指摘
してその割譲を断念させようとした。漢民族によって化外の生蕃とされ
たのが,いわゆる高砂族である。 我が国では,現在でも台湾土着民族の
ことを高砂族と称しているが,この呼称は1923年に提唱されて以来徐々に
普及していったものである。それまでは,漢民族の呼称に従ってその
二化の程度によって「生蕃」「熟蕃…」「化蕃」などと呼ばれ,「生蕃」
の居住する地域を「蕃地」とか「蕃界」などと称していた。
from 台湾高砂族の研究
秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
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故北白川宮殿下を祭れる臺灣神社
台湾神宮(たいわんじんぐう、中国語: 臺灣神宮)は、かつて台湾台北市に存在した神社である。
旧称:台湾神社(中国語: 臺灣神社)、廃座時の社格は官幣大社。
日清戦争の結果、下関条約によって、台湾が清朝から大日本帝国に割譲された。1895年(明治28年、
光緒21年)4月17日から、1945年(昭和20年、民国34年)10月25日まで50年余りにわたり、台湾は
日本の統治下にあった。
割譲された台湾に台湾征討近衛師団長として北白川宮能久親王が出征も、1895年(明治28年)10月
28日、台南で戦病死した。皇族軍人初の外地での殉職者だった。翌1896年(明治29年)1月13日、
貴族院において根岸武香を発議者とし「国費を以て台湾に神社を建設するの建議案」が出され、徳川
家達公爵ら43名の賛同を得た。さらに同年3月25日、衆議院においても「別格官幣社を台湾に建設する
建議」が北原信綱ら2名により提出された。
1899年(明治32年)2月、神社の土木工事に着工。社殿等の建築工事は翌1900年(明治33年)5月
28日に着工し、1901年(明治34年)10月20日に竣工した。
1945年(昭和20年)の日本の第二次世界大戦敗戦の後すぐに、台湾にある全ての神社は廃止された。
台湾神宮の跡は台湾大飯店(台湾ホテル)となり、1952年に改築され圓山大飯店となった。
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秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
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同妃殿下の御青年時代 故北白川宮殿下の御平服
北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847年4月1日〈弘化4年2月16日〉 - 1895年〈明治28年〉
10月28日)は、日本の皇族。北白川宮第2代当主。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじ
のみや)として知られる。
伏見宮邦家親王の第9王男子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の
猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。また、弟で義父に当たる北白川宮智成
親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の義理の甥でもある。
明治26年(1893年)11月10日に第4師団長となる。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討
近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。遺体は安平
から西京丸で本土に運ばれた。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになって
いた。日本到着後、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示された。国葬に付され、豊島岡墓地に葬られた。
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能久親王妃富子(よしひさしんのうひ とみこ、文久2年閏8月8日(1862年10月1日) - 1936年(昭和11年)3月20日)は、
日本の皇族。北白川宮能久親王妃。
宇和島藩最後の藩主だった伊達宗徳(のちに侯爵)の次女。後に旧薩摩藩国父の島津久光(のちに公爵)の養女となる。
1886年(明治19年)7月10日に北白川宮能久親王と結婚。能久親王の信頼も厚く、日清戦争が始まった1894年(明治27年)
には明治天皇のご機嫌伺いに広島の大本営へ遣わされた。 翌1895年(明治28年)10月28日、台湾に出征(乙未戦争)した
能久親王が台南で病没、富子妃は満33歳で未亡人となる。
1901年(明治34年)10月20日、宮地厳夫掌典が奉持する御霊代とともに、装甲巡洋艦浅間に乗艦し渡台し、24日午前
10時に基隆港に到着した。盛大な奉迎の中台北入りして台湾総督官邸に滞在し、10月27日の台湾神社鎮座式に参列。
翌10月28日(能久親王の命日)の例大祭で玉串を捧げて拝礼した。
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秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
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故有栖川大将宮
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、
江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。
世襲親王家の有栖川宮第9代当主。
薨去
明治27年(1894年)に勃発した日清戦争において、熾仁親王は参謀総長として広島大本営に下るが、この地で腸チフス(当初は
マラリアと診断された)を発症し、兵庫県明石郡垂水村舞子の有栖川宮舞子別邸(舞子ビラも参照)にて静養に入る。症状は一旦
軽快したものの翌明治28年(1895年)に入って再び悪化し、池田謙斎やエルヴィン・フォン・ベルツらによる治療もむなしく1月14日
にはついに危篤に陥る。その知らせを受けた明治天皇はこの日、熾仁親王への大勲位菊花章頸飾授与を決定した。翌1月15日、
舞子別邸にて59歳(満61歳)で薨去。さらに翌16日には功二級金鵄勲章が授与されたが、公式発表における薨去の日付は、
実際には遺体が東京に帰着した日である24日と発表された。熾仁親王の葬儀は国葬となり、豊島岡墓地に埋葬された。
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秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
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大總督府一行の乘船せる威海丸旅順口拔錨の光景
威海丸
元英国P&Oの汽船である。英国?インド航路の定期船 「キャセイ」(初代)として、
1872(明治五)年に 英国クライド川のダンバートンで誕生した。スエズ近河が開通した
三年後だった。
日清戦争の勃発後、日本郵船はこれをチャーターし上海航路に投入した。「西京丸」
などが徴用されたためだが、結局は 購入して 「威海丸」と名づけた。船名は 、
清国の 海軍基地があった威海衛からとられた。
日清戦争中は大連湾に出肇したが、戦後はめざましい記事はない。すでに船齢二十年を
超える老朽船だったからだろう。郵船フリートにあったのは七年ほど。
1920(明治三十五)年には個人船主に売却され、翌年、焼尻島で 座礁し 全損となった。