なんとなく、ふわっと・・

写真と画像処理関係とひとりごとをなんとなく書き溜めていきたい

日本歴史写真帖 091

2024-07-08 22:42:31 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


威海衛港の西岸黄崖砲臺我軍に於て破壊後の光景
備砲は克式二十一珊米三十五口径にして前山は大口山脈の一部なり
明治二十八年二月二十二日撮影

克式 = ドイツのクルップ社製の
珊米 = センチメートル



尾形月耕作「大寺将軍揮全力襲撃百尺崖之圖」ボストン美術館所蔵


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日本歴史写真帖 089

2024-07-02 23:20:15 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


威海衛港 劉公島の南灘に於て我水雷艇の破壊沈没したる敵の巨艦定遠號
明治二十八年二月二十一日撮影


威海衛

中国、山東半島の港で、清の北洋艦隊の根拠地。日清戦争の威海衛の戦いで
敗れ北洋艦隊は壊滅。

威海衛の要塞は日清開戦後に強化され、北岸に11個、南岸に7個、港外の
島々に5個の砲台に24センチ・カノン砲をはじめ161門の大砲と機関砲が
設置されていた。北洋艦隊の艦船は湾内に停泊し、防材を設置して日本艦艇、
特に水雷艇の侵入を防いでいた。1月30日、日本軍は攻撃を開始、南岸の
砲台を占領したが旅団長を含む209名が死傷する苦戦となった。翌日、北岸の
砲台も占領したが、北洋艦隊の漢城からの砲撃で被害も多かった。2月3日
から日本の連合艦隊が砲撃を開始、水雷艇が侵入して、定遠・威遠・来遠などを
撃沈した。主力艦を失った北洋艦隊の司令官丁汝昌は北京の李鴻章に降伏する
旨を打電し、服毒自殺、これによって北洋艦隊は壊滅した。3月には遼河会戦
での勝利、澎湖島への上陸と日本軍の優勢が決定的となって、1895年年4月、
下関講和会議の開催となり、下関条約が締結されて終戦となった。

from 世界史の窓


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日本歴史写真帖 087

2024-06-26 23:06:57 | 日本歴史写真帖



第二軍司令部将校同相当官及高等文官
明治二十八年四月二十八日 金州城第二軍司令部に於て撮影

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


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日本歴史写真帖 086

2024-06-20 23:54:05 | 日本歴史写真帖



朝鮮国軍務大臣の一行
右端なるは前府使李承九 左は参領申秦林 其左は行首宣傳官李鳳縞
明治二十八年三月十九日金州第二軍司令部内に於て撮影

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


宣傳官は朝鮮時代王の側近で王名出納と軍務処理などを引き受けた武官警官職。
行首宣傳官は複数の宣傳官のなかの主席。

from wikiwand

<google 翻訳>


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日本歴史写真帖 085

2024-06-14 22:33:33 | 日本歴史写真帖



金州城東門外墓地に於ける第二軍戦死者招魂祭式場
明治二十七年十一月二十一日撮影

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


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日本歴史写真帖 084

2024-06-08 23:39:52 | 日本歴史写真帖



金州兵站病院に於ける敵兵の負傷者治療の状況
明治二十八年一月六日撮影

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


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日本歴史写真帖 082

2024-06-02 23:39:45 | 日本歴史写真帖



金州兵站病院前に於ける剣痍者後送の景況
明治二十八年三月十八日金州城北門内に於て撮影

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


(きんしゅう/ジンジョウ)遼東半島の突端部の付け根に位置する都市で、現在の中華人民共和国の遼寧省
大連市にある金州区にあたります。西に位置する大連や旅順と大陸を結ぶ要衝として古くから栄え、当時は
城壁に囲まれた城塞都市でした。日清戦争が始まりしばらくした明治27年(1894年)11月、日本軍第2軍が
遼東半島に上陸し、この金州は日清両軍間の戦闘の舞台となりましたが、やがて日本軍の占領下におかれる
こととなりました。

from 国立公文書館アジア歴史資料センター


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日本歴史写真帖 081

2024-05-27 23:20:19 | 日本歴史写真帖



柳樹屯兵站病院及倉庫
明治二十八年四月十八日撮影

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


柳樹屯は、以前示した大連湾の和尚島のつけねあたりの場所。

---

 4月11日と13日に分かれて廣島の宇品港を出港した歩兵第九聯隊は、4月14日と16日に
大連湾に到達します。しかし、そこに上陸はしませんでした。

 翌17日には、日清講和条約、いわゆる下関条約が締結され、清国は巨額の賠償金を払い、
遼東半島と台湾を日本に割譲する約束をしました。大連湾の第4師団(第九聯隊を含む)が、
戦うべき戦争は終わっていたのです。
 第九聯隊は中国の心臓部へ向かわず、そのまま遼東半島の守備につくことになり、柳樹屯に
上陸しました。

from BIN★の「この記なんの記」


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日本歴史写真帖 079

2024-05-21 22:03:07 | 日本歴史写真帖



旅順の西北部方家屯附近に於て山砲中隊敵の陣地い屯集せるものを砲撃するの光景
明治二十七年十一月二十一日午前十時十五分撮影

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

旅順口の戦い(りょじゅんこうのたたかい、リューシュンコウのたたかい)は、日清戦争の陸戦である。

1894年10月24日に大山巌大将率いる第2軍が金州に上陸する。11月6日に金州城を占領する。11月21日に、
日本軍1万5千は清国1万3千弱に対して攻撃をする。清国軍の士気は極めて低く、堅固な旅順要塞は僅か
1日で陥落することとなる。

日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名に対して、清国は4500名の戦死、捕虜600名を出して
敗退する。

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日本歴史写真帖 078

2024-05-15 23:26:51 | 日本歴史写真帖



大連湾に於ける我運送船碇泊の光景 
図の左方より突出せるは和尚島の岬角なり(明治二十八年四月十八日撮影)

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション



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日本歴史写真帖 077

2024-05-09 21:04:50 | 日本歴史写真帖



大連湾に於ける我運送船碇泊の光景 (明治二十八年四月十八日撮影)

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション







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日本歴史写真帖 076

2024-05-03 21:37:58 | 日本歴史写真帖



栄城懸龍睡湾第一回雪中陸揚の光景 (明治二十八年一月二十日撮影)

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


栄城湾は、日清戦争の際に日本軍が1895年1月20日に上陸した山東半島の湾です。
日本軍は、清国の北洋艦隊の拠点である威海衛を攻撃するために海路山東半島に
進み、栄城湾から上陸しました。

<google AI>


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日本歴史写真帖 075

2024-04-27 22:26:58 | 日本歴史写真帖



明治二十七八年戦役第二軍の揚陸地たる花園口に於ける臨時仮設の桟橋

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


日清戦争(にっしんせんそう、旧字体:日淸戰爭)は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日に
かけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日で、完全な終戦は
台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因と
なって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で交戦し、日本側の勝利と見なす日清講和条約(下関条約)の
調印によって終結した。

10月24日 日本の第一軍が鴨緑江渡河を開始し、第二軍が遼東半島上陸を開始

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花園口は遼東半島の中央、黄海沿いの港町です。庄河市に属します。日清戦争と日露戦争の際、旧日本軍が最初に
上陸した地として知られています。旧日本軍は、守備の甘かったこの地を上陸地に定め、金州を経て旅順方面に南下
していきました。日清戦争は1894年ですので、130年前の話です。


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日本歴史写真帖 073

2024-04-21 23:38:33 | 日本歴史写真帖



歩兵第三聯隊第一大隊(二個中隊を欠く)青山停車場に於ける鉄道輸送の光景
(明治二十七年九月二十六日撮影)


秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


歩兵第3連隊(ほへいだい3れんたい、歩兵第三聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。駐屯地は
第二次世界大戦後の東京大学生産技術研究所があった場所(現在の国立新美術館・政策研究大学院
大学)。

1894年(明治27年) - 日清戦争に従軍

1936年まで駐屯していた麻布台の旧兵舎が東京大学生産技術研究所として2000年代まで残っていたが
ほとんどを取壊し、ごく一部が「国立新美術館 別館」として保存されている。


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日本歴史写真帖 072

2024-04-15 22:55:35 | 日本歴史写真帖



明治二十七八年 戦役広島大本営御座所

秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


広島大本営(ひろしまだいほんえい、旧字体:廣島大本營)は、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の
戦争指揮のために広島県広島市の広島城(現中区基町)内に設置された大本営である。

9月13日に大本営が宮中からこの地に移転し、2日後の15日には戦争指揮のために明治天皇が移った。

洋風建築の木造2階建て、広島城本丸におかれた。1階に大臣室や侍従職室、2階に御座所・御召替所・
侍従長室・軍議室などがあり、御座所は執務室と寝室を兼ね、近くに剣璽が置かれた。

明治天皇はほぼここに留まって深夜まで政務を行い、質素な生活をしていたと伝えられている。この戦争中に
見せた「精力的な活動」「質素な生活」つまり「聖徳」は明治後期における天皇神格化の中で重要なイメージ
戦略として用いられており、例えば当時普通の古びた備品を使う様は戦前の教科書に描かれている。

1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により建物は全て崩壊した(爆心地から約900メートル)。
1948年(昭和23年)、戦後の軍国主義排除の風潮の中で、史跡指定が解除され塗りつぶされた。現在では、
建物の基礎および礎石と、一部文字が消された石碑が残っているのみとなっている。


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