秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション
故有栖川大将宮
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、
江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。
世襲親王家の有栖川宮第9代当主。
薨去
明治27年(1894年)に勃発した日清戦争において、熾仁親王は参謀総長として広島大本営に下るが、この地で腸チフス(当初は
マラリアと診断された)を発症し、兵庫県明石郡垂水村舞子の有栖川宮舞子別邸(舞子ビラも参照)にて静養に入る。症状は一旦
軽快したものの翌明治28年(1895年)に入って再び悪化し、池田謙斎やエルヴィン・フォン・ベルツらによる治療もむなしく1月14日
にはついに危篤に陥る。その知らせを受けた明治天皇はこの日、熾仁親王への大勲位菊花章頸飾授与を決定した。翌1月15日、
舞子別邸にて59歳(満61歳)で薨去。さらに翌16日には功二級金鵄勲章が授与されたが、公式発表における薨去の日付は、
実際には遺体が東京に帰着した日である24日と発表された。熾仁親王の葬儀は国葬となり、豊島岡墓地に埋葬された。
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港区麻布台1
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