
秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション
鳳凰城にて撮影したる黒木第一軍腑外国従軍武官と新聞通信記者
1894年(明治27年)7月25日、日本と清の軍隊が武力衝突を起こして、日清戦争が始まります。戦争前は
国力の差から圧倒的に清が有利とみられていましたが、実際に開戦すると日本が終始優位に立ちました。
9月15日の平壌の戦いと、その2日後の黄海海戦で勝利した日本軍は清の領内へ進撃。山縣有朋(やまがた
ありとも)率いる第一軍は鴨緑江を渡り、10月26日に最初の清の拠点である九連城(きゅうれんじょう)
を陥落させると、3日後にはその北西にあった鳳凰城への攻撃も行います。しかし、清軍は不利な戦況を
見てすでに撤退を始めており、日本軍は本格的な戦闘に至ることなく鳳凰城占領に成功しました。
from 刀剣ワールド浮世絵
黒木 為楨(くろき ためもと、旧字体:黑木 爲楨、1844年5月3日〈天保15年3月16日〉- 1923年〈大正12年〉
2月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。伯爵。通称は七左衛門。
天保15年3月16日(1844年5月3日)、薩摩藩士・帖佐為右衛門の三男として薩摩国鹿児島城下加治屋町
猫之薬師小路(下加治屋町方限)に生まれる。のち、黒木万左衛門為善の養子となり黒木姓を名乗る。
1904年(明治37年)1月、軍事参議官に就任。同年2月、第1軍司令官となり、翌月、日露戦争開戦に伴い出征。
鴨緑江から奉天会戦まで連戦し、ロシア軍からは、「クロキンスキー」と恐れられた。欧州では、ニコライ2世
(ロシア皇帝)が「猿のような」と評した日本人が単独で大国ロシアに勝てるわけがないと思われて、指揮した
黒木は長年ロシアに苦しめられてきたポーランド人と報道した新聞もあった。
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2024_10_17品川-天王洲
品川駅港南口で XI
港区港南2
[M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 EZ]
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