優しく暖かい朝陽に抱かれながら自然に、ごく自然に目が覚めた。それはまるで何百万年もの長い長い眠りから来たるべき時を待って目覚める、神話の中に登場する聖なる神の様に、ああ、何とも表現できない一日が今ここに始まろうとしている。
おもむろに、横たえた身体から伸びる手は灰皿を近付け、煙草とマッチを掴んでいた。ゆっくりと立ち上がる煙りを眺める心の内には仄々としたものを感じていた。
「お早う。よく眠れた?」
既に明美は起きて窓辺に立ち、何処迄も蒼く澄み渡った小さな南の島の平和な朝の光景を楽しんでいた。
「お早う」
「早いね、起きるの。今、何時頃?」
「サァ、判らないけど、八時過ぎじゃない」
「ふうん…、いい天気ね。竹富には何時頃渡ろうかぁ?」
「船は何時頃なの?」
「石垣からは早いのが八時四十分と九時三十分だった筈だけど」
「なるべく早く行こう」
「それなら、ハ時四十分の竹富丸ね…OK,じゃ、顔洗ってくるね」
何とも爽やかな朝のひとときであった。
チェック・アウトしたのは八時二十五分頃であったと思う。未だ朝食を食べていないので何か軽いものでも…と思いA&Wの前で、
「まだ少し時間があるから…」
「ウ〜ン、そうね」
と、簡単に決まってしまった。本当にこういう意見は即決まる。そこで早速モーニング・コーヒーとハンバーガーを口に詰め込んだ。
ここで昨日の晩明美と話していた西表に行く件が話題に上った。話しは弾み、短い時間などすぐに去ってしまった。
「ねェ、九時三十分ので行かない?」
「別に構わないけど、どうしたの?」
「なんだかもう少しゆっくりしたくなったわ」
そうなのだ。明美や私だけでなくともこんな時はゆっくりと過ごし、大事にしたくなるものだ。話題などはどうでもいいのだ。こんな時は話さなくてもいいのだ。時が優しくその様に包んでいるのだから。
「そろそろ切符を買っておかないと…」
「そうね。ふ〜ん。そろそろ行きますか」
この南の果ての島国では全てが時の流れの外に止まっていて、本来人間がその中に持っているもの、『それ自体』が『暮らし』となっている様だ。
波止場で切符を買うと、そこで今日もオッチャンに会った。今日は先生も一緒だった。竹富丸出航迄の十分ぐらいの間に昨日の事や、先生とオッチャンがどうしてここにいるのか話し合っていた。彼女は明日のグラスボートに乗るとかで切符を持っていて、明美を誘っていた。西表に行く時間には多分間に合うと言う事でOKしたのはいいけれど、グラスボートに乗る為に朝が早いので、明美は結局竹富には日帰りで行く事になった。船からの窓越しに明美は先生と今夜泊まる民宿の確認をしあっていた。
竹富丸は出航。重々しくもけたたましく、音の割りには年のせいかスピードも落ち、無理矢理波を掻き分け進む姿は差し当たり『極端に肥りすぎたアザラシ』と言ったところだろう。それともセイウチか。その竹富丸の中で、明日の波止場での待ち合わせ時間を決めておいた。午前十時。遠い異国の地を数年間も外遊してきたかの様な懐しさ溢れる気持ちを抱いて、船は竹富桟橋に着いた。全ては予定通りである。
午前十時に桟橋に着いて凡そ十分後には、ハイビスカスがきれいに咲いた庭(明美は言った『花の館ね』と)の中には、海から拾ってきたイモ貝での指輪細工を楽しんでいる泊まり客がいた。明美は相棒の部屋へ、そして私は二人共今戻って来たと云う事をオヤジさんに告げようとTVの有る部屋に行ってみた。そこですぐにオヤジさんを見つけたので、部屋に居た新しい客の顔をろくに見ずに伝える事だけを伝えて戻ろうとした時だった。
「ジュン…ジュンさんじゃないですか?」
と、話し掛けてくる声がした。振り返った途端この目に入ってきたものは、まるでホコリまみれで色褪せながらも玩具箱の中で、再び畳の上に出されるのを待っている積み木の様に…しかし、まだ生まれたばかりの新鮮な息吹きを保っている懐しい顔だった。 二年前の来島の際出逢った日航の男子であった。一度行って気に入ったらもう常連になる…と云った民宿の特性がこのハプニングを呼んだのだろう。彼の傍には二〜三人の取り巻き連中が居たせいもあったが、話しならまた夜にでも出来ると思い、オバチャンの出してくれた珈琲を飲むと直ぐに明美の許へ行った。石垣への乗船券を早く買わねばならなかったし、放っては置けなかったからだ。
泉屋を出るとすぐに切符を買いそのまま少し散歩を続けた。切符売り場からそのままコンドイ浜に出て何処をどう歩いたのか、緑の木々の中に白く光る道を息を弾ませながら郵便局の方迄戻っていた。取り敢えず一度戻ってみたけれど泉屋には誰も居なかった。みんな昼食の為に外に出ているのだろうか?少なくとも私にとってはどうでもいい事だった。私達も昼食をという事でテードンに入った。砂漠の中に見つけたオアシスの様に、直射日光の全く入らぬ陰ったこの店内は、外の暑さを忘れさせてくれる。
食事が済んで泉屋に戻ってみると。一人二人と顔が揃い始めていた。戸口のすぐ左の部屋からはギターが聞こえてきた。顔を覗かせてみると例の日航の部屋であった。そこで明美が部屋に戻っている間、ノコノコと仲間に入って想い出話しやこれからの予定などを話し合っていた。そこへ明美が小さなカメラを持って、簡単な用意をしてやって来た。
「じゃ、ネ」
と、みんなに一言伝えて私もカメラを取り出し、また外に出た。
せっかくカメラを用意してきたのだからそれなりの所を歩いてみようと思い、未だ明美に見せていないような所を…と心掛け歩いてみた。民謡「安里屋ユンタ」で歌われる安里家(屋)を見たり、屋根の赤瓦や魔除けのシーサーなどのスナップを撮りながらゆっくりと歩いた。明日からの事を話していた時の事だっただろうか、明美の相棒(大分から一緒にやって来た友達)の事に触れた。私達が西表に行っている間に一人で家に帰る事になったそうだ。先程泉屋を出る前に話し合っていたらしい。身体が復調してきたのなら、一緒に行けば良いものを…。彼女が一足先に那覇へ戻った時、ここへ来る前に泊まった民宿に預けてきた荷物は、帰りに取りに行く…と、伝言を言い渡したそうだ。
結局、西表に行きたかった彼女は行けず、それ程行きたくなさそうだった明美が行く事になった。二人で帰るべく筈の予定が一人一人別々に…。どうして彼女は「一緒に廻る」事ではなく、先に帰る道を選択したのだろうか?何となく理解らなくもない…気がしないでもない…けれど…。
明美の傍で明るい笑顔を浮かべながらも、やはりその事を思うと、心重い足取りになってしまっていた。そしてその道は明日の朝迄の、暫しの別れを告げるべく桟橋に向けられていた。
安里クヤマ 誕生の家
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