気の向くままに junne

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その様な人生を追及しています

‘15. Old Music Times Blues-R&B Part -1- (フォト・チャンネル) 

2015年02月13日 | 下町放送局・アーカイブス

Old Music Times

ブルース / R&B  Part -1-

今では忘れられかけているブルース・R&Bの先駆者達にスポットを当ててみた。ここに登場するアーチスト達は紛れも無く本物で、現在の音楽の基礎を築いた人達ばかり。変化する事を求められる音楽界の流れの中で、その役割を果たしている。

 

Old Music Times (Part-2) Blues-R&B (フォト・チャンネル) 不定期の2回目                       

         

Charles Brown

クラシック畑のメランコリー・ブルースマン。1945年「Driftin' Blues」でデビュー。本来ポピュラー・シンガーと見られている様なアーティストが歌うブルースと、ブルースを歌うべくして歌うブルース・シンガーの、中間ぐらいに位置していると言える。元々はブルース・ミュージシャンではなく、学校でクラシックを学んだピアニストであった。その経歴を生かし、南部のカレッジで音楽の教師をしていた事も有るという変り種。ポピュラー音楽に足を踏み入れたのは1943年、ロスアンジェルスの劇場で行われたタレント・ショーで優勝したのが契機となっている。どうしてこのコンテストに参加したのかは明らかではない。

1945年にジョニー・ムーアズ・スリー・ブレイザーズにピアニスト兼シンガーとして加わり、デビュー・レコードを吹き込んだ。当時はナット・キング・コールのスタイルを試みる者が多く、この時のレコーディング・セッション4曲中3曲はその様なスタイルのもので、あと1曲という時にチャールス・ブラウンに「知っているゴスペル・ソングをブルース形式で演ってみては・・・」という者がいて、その結果出来上がったのが「Driftin' Blues」であり、それが出発点となり、スターへの道を突き進む事となった。

1949年以降は自分名義のレコードを出す様になる。1950年になる頃には30枚程のレコードを出し、高まる人気はウエストコーストから南部に迄及んでいた。彼のスタイルを模倣する者が続々と現れ、その中には若き日のレイ・チャールスもいた。この頃レイ・チャールスよりも大スターであった連中もその中にいた・・・などという事からもチャールス・ブラウンの影響力の大きさが窺われる。ジョニー・ムーアのグループ名で1948年頃迄には50枚近くのSPが発売されている。こうした人気も1950年代後半には無くなって行った。やはり音楽界の変化の為であろう。1963~1964年には1枚づつ2枚のLPを出すものの以前のものとは異い、ポピュラーやスタンダードものになっている。1970年代に入って久々のレコーディングをするが、以後は不明だ。

Joe Liggins

オクラホマ州ブリストルの生まれ。

傾向的にR&Bの場合は、バラードの感覚を強調しポピュラー化するもの(グループの場合に多く見られる)と、ビート感覚にブルース音楽の特徴を残しポピュラー化するもの(ソロ・シンガーはこちらに近い様だ)の二つが有るけれど、何れにしろエンターテインメントとして高度に磨かれたものである事に異いは無い。彼、ジョー・リギンスもやはりそうした黒人音楽のエンターテイナーの一人。

彼の生まれたオクラホマのブルースは、カンサス系のシャウターともウェスト・コースト系などの南部のものとも、一味違った感覚がする。それは当時、彼が幼い頃、ブルースとC&Wを合わせた様な連中が近くでプレイしていた事と、ブルースにしてもボードヴィル的要素が強かった様であるから、その影響かと思われる。要するにテキサスとかアーカンソー州などとはかなり異った土地柄で、どちらかと云うとカントリー・ブルースからは掛け離れた音楽(ブルース)を生み出す要となっていた・・と考えると、合点がいく。その様な土地柄が彼のブルースを育んだ・・と言って良いだろう。

8歳の時に音楽に興味を持った彼は、或る事からピアノを始めた事と、教会でゴスペル音楽(この教会でのゴスペル・ソングは2拍目と4拍目にビートがくるもので、アフター・ビートを無意識のうちに身に付けた様だ)に触れた事が、彼のスタイルを形成していった。

その後ウェスト・コーストへ行きバンドを組み、1946年にデビュー曲となる「Honeydripper」を吹き込み、それが大ヒットとなり、バンド名を「ハニー・ドリッパーズ」と名乗る様になった。そして1950年には「Pink Champagne」の大ヒット曲を出している。

John Lee Hooker

1918年(推定)ミシシッピー州クラークスデイルで誕生。1948年、30歳の時にデトロイトに出向きフォード自動車工場に仕事を得て間もなく、センセイション・レーベルでレコーディング・セッションを行う。1948年11月の事で、この時に4曲録音している。その中から「Boogie Chillen」がデビュー・レコドとして発売され、これがヒットする。センセイション・レーベル以後モダン・レコードから発売。その後は何社か変えている。

一番良かった時代は1948~1951年頃だろう。彼の特徴は何と言っても独特のブギにある。ジャズ・ピアニストが生み出したブギウギを、ギター奏法により適した形にして発展させたもの、と言っても良いだろう。ブルースやジャズが様々な変化をしていく中で生まれたブギウギ。時代の要求の中で本来の在り方とは異った変化をし、ダンス・ミュージックの一形態として確立していったピアノ奏法を、彼は更にギター用に変化させたという事だ。そしてそれが後のR&BやR&Rに影響を与えた事は言う迄も無い。第一線で活躍していた時期が短い様に思えるのは、この時代のブルースの置かれた時代背景に由るところも有るのであろう。しかし、彼のブギは南部黒人のダンス音楽の伝統を、現代の白人の若者達に確実に伝えるという、重要な役割を果たした。

Johnny Otis (ジョニー・ヴェリオテス)

1921年、ギリシャからの移民の子として、カリフォルニア州ヴァリューホで誕生。1923年、バークレーへ引っ越す。この事が後の彼の生き方を変える事となる。        30年代の不況の時代を過ごし、第二次大戦が始まった頃から、黒人が多く住み着き、バークレーは黒人街へと変貌していった。当然の事ながら、ギリシャ系の彼の遊び相手は黒人の子達となり、白人でありながら自ら黒人の精神を選択した奇妙な人生が始まる事となった。

彼の音楽の始まりは、ハイスクールの頃万国博を観に行って、カウント・ベイシー楽団の音楽に接しドラマーにシビレ、ドラマーになる事を志した事からである。20歳になる迄には、プロのドラマーとしてローカル・ジャズ・バンドで働いていた。つまり、彼の出発点はジャズであったのだ。

1947年頃にはジャズからR&B色の有るものへ転換を計り、1950年前後には後に有名になるアーティスト達を発掘し、R&Bのスターへと育て上げた。1957年、キャピトル・レコードからかなりR&R的なサウンドへと転換し、1958年には彼の代表曲となる「Willie And The Hand Jive」をヒットさせた。1960年代にはあまり音楽活動をしなかったが、1969年にはCBSと契約を結び、R&Bとブルースで舞い戻って来た。

ジャズから始まりR&B、そしてブルースと、時代と共に変遷してはいても、常に正体不明の音楽色が色濃く表出していた作品を創り上げていたところに、彼の価値を見いだせる。それはギリシャ系の白人がアメリカで誕生し、黒人の中で育ち、自らの精神を黒人であると自覚し、黒人音楽から人生を出発させた音楽家の生き方、そのものである。

Pee Wee Crayton

荒々しく激情に駆られて弾くギターリスト。

ティー・ボーン・ウォーカーとの比較。

ちょっと無謀な比較だが、1940年代末期から1950年代と、時期的にほぼ重なるので考えてみる。先ずティー・ボーン・ウォーカーは既に完成されたギターリストであり、その高度な音楽性は仲間のギターリスト達から、大変な尊敬の念を持たれていた。勿論、ピー・ウィー・クレイトンも多くの影響を受けている。そのピー・ウィーはと云うと、T・ボーンに比べ荒削りで堅い感じのするサウンドであり、派手さと格好良さで、一般の黒人ファンの人気としては引けを取ってはいなかったと言える。少なくても広くアピール出来ていたと思う。

ピー・ウィーが何を音楽界に残したのか・・については、はっきりと「これだ」というものが判らない。シンガーとしても決して突出しているわけでもなく、発表したレコード枚数もそれ程多くはない。前述した様に、荒々しく激情に突き動かされて弾くスタイル(後年はややソフトになった・・と言えるか!?)で、後継者が誰なのかさえ判らない。

しかし、当時は人気が有ったのだ。ブルースマンとしての味は確かに認められるが、何となく不思議な存在である。この時代に黒人として生まれていれば、理解出来たかもしれない。

Guitar Slim  (エディー・ジョーンズ / Eddie Jones )

1926年、イシシピー州グリーンウッド生まれ。                      教会の合唱団のメンバーとして音楽界に入る。その後ブルース歌手として或るトリオに入り、やがてギターを手にする様になった。1950年、ニューオリンズで歌手兼ギターリストとなり名を売って行く。1951年にインペリアルで初のレコーディングをするも不発に終る。当時はファッツ・ドミノがスターになりかかっていて、そちらの方に掛りっきりで、ギター・スリムの売り出しにはあまり熱心ではなかったのでは・・・と云う説もある。1952年、ジム・バレット・レコードから「Feelin' Sad」と云うヒット曲を出すが、スペシャルティに移籍する。

1953年10月26日、「The Things That I Used To Do」を録音。この曲では珍しくレイ・チャールスがピアノを弾いている。この曲は1954年ビルボード誌のR&Bチャートで6週間トップだった。こうしてスペシャルティでのロイド・プライスに続く成功者となった。その後に続いたのがリトル・リチャードである。

ギター・スリムはと云うと、1956年にアトコ・レコードに移りニューヨークでレコーディングをする様になるが、その頃は既に人気が落ち始めていて、1956~1958年の間に僅か4枚のシングルを出しただけで、何れもヒットはせず1959年に32歳で他界したが、全くマスコミの話題にはならなかった。

 

一般的にはニューオリンズのR&Bとされる。これはヒューイ・スミスと組んでニューオリンズを中心に活動し、スペシャルティ・レコードに在籍していた頃が全盛期であり、ニューオリンズとの関りが深かった為である。

が、しかし、一言でニューオリンズ・ブルースの枠に当てはめられないのも事実である。ロイド・プライス、リトル・リチャード、ラリー・ウィリアムスなどのスペシャルティのアーティスト達は、他のニューオリンズのアーティスト達(例えばファッツ・ドミノなど)とは全く別物である。良く言えばニューオリンズのR&B・ブルースの幅広い多様性という事になるが、やはり無理が有る。他のモダンなニューオリンズ・サウンドとは異い、余りにも泥臭いのだ。ミシシピー・デルタの洗礼を受け、ニューオリンズでミリオン・ヒットを出し、テキサス~カリフォルニアの系列にも入る。正に独自の一匹狼である。

活動期間が短く、しかもどの系列にも属さない。戦後のブルースを創り上げたユニークな存在である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                 



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