気の向くままに junne

不本意な時代の流れに迎合せず、
都合に合わせて阿らない生き方を善しとし
その様な人生を追及しています

(‘77) 7月2日 (土) #1 大潮

2023年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
午前中、ボケ~っとしながら煙草を吸っていたところへ高知のオバヤンがやって来て、これから帰宅の途に付くと云う事を聞かされた。私はここの主ではないのに、わざわざ声掛けしてくれた。この竹富を楽しめたのかな…、満足そうな顔をしていた。見送りに桟橋迄行こうかと思ったけれど、外に出た途端、何を思ったのか握手をして、泉屋を離れていくマイクロバスの後から手を振って見送った。

ところで、今日は大潮であった。ここ竹富の大潮は驚異だ。距離(実測値)などは勿論解らないし、また私には推測出来ない程の広大な干潟が、目の前に広がるばかりなのだ。外(海上)から見ると竹富島は黒島と似ている。高い山は無いし、目立った起伏も無い。音楽の二分休符の様に見える。他の言葉で言えば、お盆を逆さに置いた様なもの。
海面下は珊瑚が彩る遠浅が続き、リーフの外はいきなり海中の崖と言った感じで、急に深くなる。南方に於いてこの形は勿論珍しくはないが、其々に海の彩りを変えて楽しめる八重山では、竹富の其れが特に際立っていると思うし、水中の景観としては見事の一言である。

さて、今日のこの大潮でその遠浅の海が隆起してしまったかの様に、目の前には海の底が注がれる陽を浴びているのだった。勿論、いくら何でもこの竹富の回り、360度全てが同じ現象と云うわけでは無いであろう。私がこの目に焼き付けたのは、このコンドイ浜での事である。この竹富に在っても、やはりコンドイ浜ならではの事ではなかろうか!?いや、私がコンドイ浜に居る間に、他の何処かでも似た様な現象は起きていたのかも知れない。が、何れにしても私が今日ショーコと見たこの光景は、生涯忘れられないものだろう。私達は幸運であった。いつでも見られるというものではなく、『その日』にそれを『見られる場所』に居合わせなくてはならないからだ。そしてこの八重山の何処でも(どの島でも)私とショーコの見た規模のものが見られるとは限らないのであるから。例えば数日間見ていた海が、或る日突然野球場よりも大きな干潟になって目の前に在ったら、それを見た人が事前に何も知らなかったとしたならば、その人の驚きの大きさは歓びの大きさとして比例するだろう。私とショーコ、二人が見た大潮とはその様なものであった。そして干潟になったコンドイの大潮の浜で私達は童心に帰って戯れたのだった。

泉屋に戻って戯び疲れた躰を横たえていると、何処からともなく他の泊まり客がポツリポツリと帰って来た。或る者はコンドイ浜に居たかも知れないし、或る者はあの大潮を見ていないかも知れない。それでも彼等(彼女達)の口からは、新たな思い出作りの笑い声が、その顔には楽しく戯び疲れた満足感が浮んでいた。

手前が大潮で出来た砂浜
奥が小浜島

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