映画「ヒットラーのための虐殺会議」をみる
あの事件は何が原因であるのか昔から気になっていた。しかしこの映画はそれに答えてくれるものではなく、事件をおこすことはヒットラーからの所与の案件であって、それをどう進めるかの会議を淡々と描いている。多分磨き抜かれたセリフとカメラマンや音響スッタフの腕の冴えによって、ヒト世代前の男たちのもう一つの戦場である会議はこんなもんでしたよ知らしめる映画であろう。
カメラは会議場を出ないし論争もヒートアップするものではない。自己保身に走るヒト、結構いいアイデアを出すものの出世狙いの人につぶされていく様など確かに2000年より前の日本の会社や役所での会議に見られる人間模様がつぶさに描かれている。2000年ごろから急に組織が上意下達になってしまってこういう決戦の会議が見られなくなった。同時に職場でのハラスメントが増えたり職場がギスギスすることが見られたから、こういう決戦の会議は職場の風通しのためには必要なものではなかったと今になっては思い返される。
こういう会議で主導権を握るためには、こんな風に振る舞うといいこういう心掛けで臨むといいと参考になることが一杯ある。昔見ておくべき映画であった。今見て反省してもあんまり役に立たない、もうそういう会議は開かれそうにないからである。それでもなんだか見て賢くなったような気がする映画であった。こんな風に歴史の重要な場面で行われた会議の映画は幾通りにも作れそうであるが、是非日本の歴史上の事件でもこんな作り方で作った映画を見てみたいものだ。太平洋戦争開戦前の会議なんかどうだろう。
この映画を見ながらなぜあの事件を起こす必要があったのかを考えていた。財産没収して戦費調達のためはあり得るだろう。一次大戦のあとの大インフレの際に大変な苦労をした。その苦労させたのがあいつらだという共通の思いが形成されたのかもしれない。またはそういう誘導がなされたのかもしれない。真面目な人ほど苦労する。その苦労をした人ほど誘導に乗りやすい。
翻って今の日本である年代またはある集団が大変な苦労をしたまたはしている。さらに会社や学校の中ではいじめが頻発している。こころ折れた人があちこちにいる。日本も真面目な人が一杯いる。こんな状態では難しい事態にならないかと心配になってくる。木曽義仲も源の何某もみな京都で栄耀栄華をしているのが妬ましかったはずである。木曽義仲の手下も源の何某の手下も真面目な人々であったと想像できる。真面目は良いことだと子供に教えすぎてないか。真面目に悪いことをやられるとたまったもんじゃない。各人が自分のトクになるように生きるように指導しないといけない。映画のストーリーとは別にこんな心配に漂着したころにこの映画を見終えた。