映画ベネデッタを見る。② 第二のルネッサンスこれから始まるのか
この映画の最大のメッセージは、女のヒトも組織の中では権力闘争するということではなく教皇大使(こんな職位は多分実際にはないと思う。教皇代理くらいの意味だと思う。)が民衆に倒されてしまう場面であろう。権力闘争をする女性たちの混乱を収拾するために登場した教皇大使が倒されてしまう。全体のストーリーからはやや独立している付け足しの話である。こういう付け足しの場面にこそ言いたいことが含まれていると思う。
実際の歴史ではペストが流行った後「神は人々を救済しなかった。」として神に対する不信が人々の心に芽生えこれがルネッサンスを準備したとされる。神よりも自分の隣近所にいる人間の気持ちも大事にしようと人間中心主義が始まったとされる。映画ではもっと過激に教皇大使が民衆に押し倒されてしまう。
この場面を見ながら、この時期にこんな場面を挿入するとは自分たちは第二回目のルネッサンスをこれから始めるとの宣言をしているようなもんだろう。私はこの場面を見て「あ、あんな大きい石投げられたらそら痛いやろ。」と呑気に見た。しかし当時は各人の心の中の価値の体系を決めてくれる人に対して石を投げたのであるから大変な事件だったはずである。信仰の深さから言って現在の日本中の全神社仏閣に大きな石が投げ込まれるのとはけた違いの大事である。もう自分たちはあんたの言うことを聴かないとの意思表示である。ペストの時にもうあんたの言うことなんか聴かないと決心したがどうも徹底してない気がする、今度こそあんたのいうこと聴かないぞと宣言する場面ではないか。
このことからヨーロッパでは、人々の心に関してどうも巨大な変化が起きているのではないかと推察される。日本ではまた元に戻ると思っているが、少なくともフランスイタリアではもう元に戻らないでこれから人々の心が大変化を遂げるだろうと見ているのである。神の支配はさらに薄くなると見ているのである。
ところで私は宗教はヒトが自然から遠ざかることから発生したと考えてきた。犬猫やコオロギキリギリスが普通に持っている本能が薄れてきたのでそれを補完するために宗教を必要とするようになったと思う。この映画の中でも盛んに「神の御心」とか言っているのは(何が自分の最善手かが分からなくなってしまったので)自分はどうしたらいいですかと尋ねているようなもんだ。都市化されるとさらに本能が薄れるのでわれわれはさらに神の御心を必要とするようになるんじゃないのか。であるのにその神さんに石を投げるとは罰当たりな時代に逆行する行為な気がする。
そこでさらにこう考えた。薄まった本能を補完するのは古い神では間に合わないでこれから始まるAIになるんじゃなかろうか。AIにお伺いをたてて物事を決める時代が始まりそうである。新しい神様に取り換えるということなのか。古い時代を舞台にしている映画であるが、そんな新しいことを考えるほど濃密な時間を過ごせた。