大覚寺展(東京国立博物館)2
京都東寺には穏やかな顔をした大日如来が中心にあって、三面六臂の恐ろし気な仏像は脇役になっている。しかし、大覚寺の各明王は全部が恐ろし気で中心になってる本尊も恐ろしげである。大日さんが今回の出開帳に参加されなかっただけなのかそもそも大日さんがご不在で今回おいでになった明王さんですべてなのかはわからないが、なぜこんなにも恐ろし気なのだろうか。
いろいろ困りごとを相談するのが宗教のはずであるが、こんな恐ろしい表情の人には相談する気がそもそも起きないではないか。同じ空海さん作の如意輪観音像は肉感的な女性像で知恵のある頼れる居酒屋のおかみさんの風情である。困りごと迷い事の相談に乗ってくれていいタイミングで答えを引き出してくれそうである。しかし大覚寺の像には相談しにくい雰囲気がある。
お話変わって南米には笑い茸というキノコがあって食べると笑いだすという。しかし服用には必ず指導者(神官)を必要とするという。指導者の下で食べると悩みが軽くなるなどの効果ありと聞く。
揺らめく篝火に照らされたこの仏像を見ながら加持祈祷してもらったとする。焚かれる護摩の煙の中に笑い茸に似た成分が入っておればどうだろう。悩みが軽くなる効果が表れないか。加持祈祷するときにその人を異世界に誘う舞台装置としてこの三面六臂の恐ろしい顔をした明王が必要ではなかったと思う。
昔の貴族は今の我々から見て、働かなくていいし旨いものを食べて雑用はみんな周囲の者がしてくれるしとてもいい生活であったように思うけど実は悩みの塊であったような気がする。あなたの悩みを軽くしてあげましょうと近づけば師弟の関係にすぐなったであろう。嵯峨天皇と空海の関係は師弟の関係でもあり芸術家とパトロンの関係でもあったと想像できる。
加持祈祷の声も聞こえないし揺らめく炎の篝火もない、護摩の煙もない。ただ異世界に誘う舞台装置である仏像だけが我々の目の前にあるということではないかと思えてきた。この仏像を見ながら嵯峨天皇は大変繊細な人で救いを心底求めていたのだろうと想像した。