渋沢栄一100の訓言(日経ビジネス人文庫)を読む。
よく似た題の本に渋沢百訓(角川ソフィア文庫)があってこちらは細かい字でぎっしり書かれてあって、読もうと思っていまだに積読になってしまっている。100の訓言の方は、渋澤健という方がお書きになったようで渋沢百訓のダイジェスト版のように思われる。字が大きいのでこちらから読もうと試みた。まあ明治の偉い人の話だから自分があっちこっちで聞かされてきた訓話と同じようなことだろう、それにこの人は論語が大好きなようだからますます同じ話を聞かされるに違いないとあんまり期待せずに読み始めた。
今はどうなってるか知らないが私どもの小さいころは、学校の先生は折に触れて長々と説教を垂れその内容はどうやら儒教の教えからきているようだった。ここは子供たちは聞いているふりをしないといけない我慢の時間であった。反抗的の眼付をすると我慢の時間が長くなることを何度も経験してきていた。そうなると一緒に我慢している多くの友人にいらざる迷惑をかけることになる。しかしいけないことに、聞いてるふりをする癖はその後人生のあらゆるところでこれを行ったために、後々の人生で様々なトラブルに巻き込まれることになる。
それはさておき、渋沢栄一100の訓言には例えばこうある。「欲がない人は駄目。無欲は怠慢のもとである。」①私どもの小さい時は「欲深なことはいけない。ものを貰ったら兄弟や友達で分け合うように。」②という教えである。もちろん②の教えは守るはずもないが、言葉としては頭の中に残っている。いろいろ理屈を付ければ①と②はなんら矛盾しないということになるのであろう。しかし道徳は寸言でないと役立たない。どうもビジネスの世界では教訓②は分が悪そうである。と言うことは、わたしは学校で我慢して教訓を聞いたばっかりにビジネスの世界では役に立たない人間になってしまったことになる。
「勉強の詰め込みはやめよう」(渋沢栄一100の訓言)③これはいまでこそ共通理解が得られてきているが、昔は「今勝負の時である。戦い抜かねばならぬ。」④という風潮であり戦うとは受験戦争に勝つためであった。これにより人生が開けるとされていた。学校の教師の中には、毎時間この訓話を垂れるのが居た。ひどい時には50分の半分も訓話にしてしまうのがいた。
「口は幸運の門でもある。」(渋沢栄一100の訓言)⑤これに対しておおむね「モノ言えば唇寒し」⑥の生き方が良しとされた。現にあの長くてつまらぬ訓話も黙って聞くふりをする訓練を施しているのである。
「生ぬるい湯につかるな。」(渋沢栄一100の訓言)⑦こちらは学校でも同じようなことを言われていた記憶があるがあまり印象に残っていない。当時の社会一般の気風としては「なるたけ楽な職場を選び、倒産や解雇のないところで自分だけはぬくぬくとやっていけ。そういう職場に潜りこむために今受験勉強を必死になってやれ。人生の苦労はこの18歳までに凝縮されているぞ。ここを乗り越えると楽になるぞ。」⑧というのが流行っていた。この当時の風潮にうっかり乗ってしまったのが人生のつまずきのもとであると渋沢栄一100の訓言をよみながら考えた。
どうも⑧に限らないが今世間で流行っている言説をまともに受け取るとあとあと碌でもないことになるようである。わたしなら、101番目の訓話に「ヒトの話は、それに乗っかって誰が得するのかをよく考えよ。あなたのためというのが一番怪しい。あなたのために大きな声で説教する人が居るはずがない。自分のトクは自分で考えるより他ない。」と付け加えるところである。