本の感想

本の感想など

崖上のスパイ(張 芸謀監督作品)を見る①

2023-02-15 15:03:56 | 日記

崖上のスパイ(張 芸謀監督作品)を見る①

 赤いコーリャンや紅夢 では赤がテーマの映画だったが今回は多分白と黒がテーマの色になるだろう。ものすごい資本を投入して作った映画でこんなすごいもん千円少々二千円弱で見せてもらっていいのかと思いながら見ていた。

 お金をかけた場面はクラシックカーの部分かもしれないが、雪の場面がもっとかかっていそうである。白と黒だけの追走する場面で、緊張感をみなぎらせる映画は昔フランスの暗黒街もので見たことがある。この時は多分アランドロンだったと思うが白いワイシャツの袖の部分と黒い服の追走の場面で、ここに白黒だけを用いた見事な場面があった。30年以上たった今でも明瞭に覚えている場面である。このフランスの暗黒街ものは照明スッタフやカメラマンの腕だけでできたと考えられるが、崖上のスパイは同じような場面で黒い服と黒い帽子、白い雪であって見事な緊張感をみなぎらせる名場面である。もちろんカメラマンや照明スッタフの腕も冴えているが、それ以外のスッタフの腕の冴えもあるように思う。

 初めは雪の上を何の苦も無く走る人物をみて余程特殊な靴を履いているのかと思ったり、うまいこと作った発泡スチロール使ってるなと思ってみていた。しかしエンディングに出てくるスッタフの100人はいるであろうCGスッタフの名簿を見ながら多分この雪はCGで合成した場面ではなかろうかと思う。(違ってれば恥ずかしいことだけど)娯楽映画ながら大変な名場面でブリューゲルの名画が動いているような気分で鑑賞できる。

 映画にCGというとどうしても動きが滑らかなアニメを想像してしまうが、アニメよりこういう拡張現実の場面に使うことの方が(多分大変な手間だと思うけど)CGの有効な利用方法だろう。アニメだと初めから作り物という気分で見てしまうが、こういう拡張現実の手法だと作ってると思いながらも引き込まれてしまうものがある。引き込まれた状態で普段の自分の考えていることを反省し見直すことが映画の値打ちなのであるから、ヒトをその魂ごと引き込むことができるのが良い映画である。他人を引き込むためには俳優の優れた演技もよい音楽ももちろん必要であるが、見事な場面も必要である。多分CGによってだと思うけどこれは見事な場面であった。

 アートでも自然でも美しいものに触れて気分を良くしながらいろいろものを考えたいというのは、都市に生活するとどうしても必要なものである。これを商業主義の娯楽映画であるなどと思わないで巨大なアートであると思って鑑賞すると見る人の人生を裨益すること大きいと思う。


俄 浪速遊侠伝(司馬遼太郎 昭和47年刊)をよむ

2023-02-14 13:15:24 | 日記

俄 浪速遊侠伝(司馬遼太郎 昭和47年刊)をよむ

 これは大衆小説ながら立派な全集の装丁になっていて豪華な気分で読むことができた。江戸末期を舞台に浪速で活躍したという設定になっているがモデルになる人物がいたのかどうかも分からない。遊侠の世界に生きるものが偶然本人の意思と関係なく武士の末端に取り立てられていくというかなり荒唐無稽な物語だからモデルになる人物はいなかったのではないか。昭和40年代に流行った東映の時代劇映画を彷彿させるようなストーリーである。そもそも遊侠の世界に生きる人物がその心掛けをあまりカエルことなくリアルの世界で思いがけない働きをしていくとの設定にはいかに混乱した世の中であっても無理がありすぎる。しかしこの時代(昭和40年代)にはこのようなニヒルな主人公がもてはやされた。そのニヒルな主人公がほんの10年間ぐらいの間で大衆小説から突然いなくなった。これが不思議なところである。

 当時は会社なり役所なりに勤めることが当然とされた時代である。それ以外の生き方は当然のように絶対許されないとされていた。それでは仕方ないからまあそれには従っておくが内面は自由に生きたいとする欲望を満たすために、人々はこのような主人公に自己をかさね合わせる必要があったと考えられる。(主人公は心掛けを変えることなく出世していくところに注意が必要だろう。)それがバブルの時代には勤めるとか内面の自由とかはどうでもいい時代(短い時間ではあったが)を経て、今日のどうあがいてもひどく苦しい時代になった。もうニヒルな主人公の出番はなくなってきたと考えられる。ここから考えて、人々は生き方を強制されてそれと自分の内面の葛藤に悩む必要がなくなったか、そんなことを言っている余裕もなくなったかのいずれなのかもしれない。もし前者であれば今のヒトの方が昭和40年代のヒトより幸せであるということになるからそれはおかしいだろう。ならば、後者であろう。昭和40年代の人は会社へ一生奉公させられることへの怒りを薄いながら生涯抱き続けた。だからと言ってこうしたいということも見つからなかった。通勤電車のなかでこの本を読みニヒルなそれでも上手くいく主人公に自分の生涯を重ね合わせてわずかなうっぷん晴らしをしたと考えられる。

 だったら現代の大衆小説の主人公は、思わぬ幸運に恵まれ社会の上層に上がっていくわらしべ長者タイプか、独立自営から起業するアップルタイプか、会社の中でうだつが上がらないが何かの拍子に急に仕事しだして出世する三年寝たろうタイプかと思われる。しかし、そのいずれも可能性が薄いので小説の主人公にならないだろう。この本を読みながらここ数十年の間の世の中の変化の速さに改めて驚かされた。

 今人々が求めているものはハラスメントのない組織または集団であろう。街ゆく人々の後姿を見ながらそう思うことがある。そのような大衆小説や映画は受け入れられるだろう。または、ハラスメントの少ない組織を運営できれば人々は喜んで働きに来てくれるかもしれない。


映画「ヒットラーのための虐殺会議」をみる

2023-02-06 15:05:31 | 日記

映画「ヒットラーのための虐殺会議」をみる

 あの事件は何が原因であるのか昔から気になっていた。しかしこの映画はそれに答えてくれるものではなく、事件をおこすことはヒットラーからの所与の案件であって、それをどう進めるかの会議を淡々と描いている。多分磨き抜かれたセリフとカメラマンや音響スッタフの腕の冴えによって、ヒト世代前の男たちのもう一つの戦場である会議はこんなもんでしたよ知らしめる映画であろう。

 カメラは会議場を出ないし論争もヒートアップするものではない。自己保身に走るヒト、結構いいアイデアを出すものの出世狙いの人につぶされていく様など確かに2000年より前の日本の会社や役所での会議に見られる人間模様がつぶさに描かれている。2000年ごろから急に組織が上意下達になってしまってこういう決戦の会議が見られなくなった。同時に職場でのハラスメントが増えたり職場がギスギスすることが見られたから、こういう決戦の会議は職場の風通しのためには必要なものではなかったと今になっては思い返される。

 こういう会議で主導権を握るためには、こんな風に振る舞うといいこういう心掛けで臨むといいと参考になることが一杯ある。昔見ておくべき映画であった。今見て反省してもあんまり役に立たない、もうそういう会議は開かれそうにないからである。それでもなんだか見て賢くなったような気がする映画であった。こんな風に歴史の重要な場面で行われた会議の映画は幾通りにも作れそうであるが、是非日本の歴史上の事件でもこんな作り方で作った映画を見てみたいものだ。太平洋戦争開戦前の会議なんかどうだろう。

 この映画を見ながらなぜあの事件を起こす必要があったのかを考えていた。財産没収して戦費調達のためはあり得るだろう。一次大戦のあとの大インフレの際に大変な苦労をした。その苦労させたのがあいつらだという共通の思いが形成されたのかもしれない。またはそういう誘導がなされたのかもしれない。真面目な人ほど苦労する。その苦労をした人ほど誘導に乗りやすい。

 翻って今の日本である年代またはある集団が大変な苦労をしたまたはしている。さらに会社や学校の中ではいじめが頻発している。こころ折れた人があちこちにいる。日本も真面目な人が一杯いる。こんな状態では難しい事態にならないかと心配になってくる。木曽義仲も源の何某もみな京都で栄耀栄華をしているのが妬ましかったはずである。木曽義仲の手下も源の何某の手下も真面目な人々であったと想像できる。真面目は良いことだと子供に教えすぎてないか。真面目に悪いことをやられるとたまったもんじゃない。各人が自分のトクになるように生きるように指導しないといけない。映画のストーリーとは別にこんな心配に漂着したころにこの映画を見終えた。


満州国と日中戦争の真実(PHP新書)を読む

2023-02-01 13:50:30 | 日記

満州国と日中戦争の真実(PHP新書)を読む

 雑誌を新書にしたような造りで、いくら何でも粗製だと思う。紙とインクを燃やして暖をとり出版社が露命をつなぐ感がある。最近は人々が本を読まなくなったので出版社も取次も本屋も本を書く作家もみな苦しいらしい。だからと言ってお粗末な本を出すともっと苦しいことがおこる。ネットでもテレビでもあまりに知識の押し売りがひどいので自分の頭で考えたいとする人は活字の世界を手放さないはずである。テレビにおされて斜陽だとされた映画が決して倒れなかったように、出版業界ももっと工夫して今少し安価にそれでも中身の充実に心がけてもらいたい。やらずぼったくりするとお客に逃げられますぞ。

今回は本を手に取ってみることなく買った。本を見ないで買うのは危険である、つくづくアマゾンで買うというのはやめにしようと誓いを立てた。しかしそれでは千円ほどが勿体ないので読みながらつぎのようなことを考えた。

 いままで満州国は日本史では滅茶苦茶評判が悪い。失敗したからだけど、もう少し公平な目で評価してあげるべきだと思う。例えば、満州開拓は棄民政策だとする説を聞いたことがある。それはソ連参戦後に開拓団の人々を関東軍が保護せずに惨事を引き起こした事件を見て棄民であったという印象を持っているのであって、開拓団を送り込んだことそのものが棄民であったかどうかの評価はまた別のことからやらないといけないはずだろう。長期にわたる政策は、その一番初めの段階ではちゃんとしたものだったとみるのが当然だろう。政策立案者がはじめからこの案に乗ったやつにはあとでえらい目にあわせてやろうなんてことは考えないだろう。

 私の考えは、次のようです。大恐慌か関東大震災かまたはその両方かもしれないが、金融を大幅に緩めた時期に発生した信用を資本家が丹念に集めて回って自分の手中に収めた。(こうするのに10年とか20年とかかかったと思われる)これを日本国内には投下するところがないので中国東北部に国を作って世界から何言われようがここを死守する必要があった。個人が何十兆という金を手にすると、毎日うまいものを食べてそれで終わりであるが資本家が手にするとこれをお互いに競争して増やすことばっかり考える。その競争する場としてどうしても満州帝国が必要だった。ちょうど何かの選手が競技場を必要とするのと同じである。

 しかも、役所でも会社でも上がツカエて下から入った優秀な人が腕を振るえないで不満を募らせることが始まる時期でもあった。この人材を帝国建設に使える。日本国内からは若くてうるさい面倒くさい人が居なくなるから感謝される。こんな各方面にとっていいことはない。中央銀行が信用を創設したことが問題なのではなく、こういう競技場の建設が周囲の迷惑になることが問題なのである。

 または競技場の建設に連れて行った用心棒が前面に出過ぎたことが問題であったのかもしれない。中国の王朝でもローマ帝国でも大抵危機の際に頼りにした用心棒にえらい目にあわされるというのがお決まりのストーリーになっている。わが国では、戦国時代にぼんやりしていた守護大名がその手下に喰われてしまうということに現れている。

 今も中央銀行が信用創設をやっていて果たしてこれはまた昔と同じことが起こるのではないかと皆が気をもんでいるけど、こういう競技場が建設されそうな気配がない。それはそうでもう開拓する場所がなくなったのではないか。それに上がつかえて不満な人もいなくなったのでいわゆる人事圧力でこうしないといけないということもなくなった。

 競技場の建設は宇宙とかネット上とか海底とかで行われているのかもしれないが、そうだと書いてある本にはまだ巡り合っていない。