残照亭の日日

残り少ない日々、自分の日常や古い話などを時々書きます。
故「藤沢周平」のファン。思い出の作品などを書いてます。

「藤沢周平」⑰~続・どんな人だったのだろう~

2023-10-11 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

鶴岡市の奥座敷?に湯田川温泉が有る。

6年ほど前、「藤沢周平記念館」を訪れたとき、湯田川の

「九兵衛旅館」に泊まった。

おかみさんが教え子の一人で、藤沢が鶴岡に行った時の定宿に

していたという。

色紙ゃ著作物、映画のポスターが展示されている。

藤沢氏の許可を得て、旅館の宣伝にも「藤沢の定宿」と謳ったという。

「お~、私の名前が役に立つなら幾らでも使ってくれていいよ」と

云ってくれたのだという。

教え子達が東京で開く集まりには、必ず出席したという。

相談事にも、親身になって聞きアドバイスもしてくれたそうだ。

その、教え子たちが「藤沢記念碑」を作ろうとしたとき、大反対していた。

とうとう根負け・生徒たちの説得に応じ、湯田川小学校に建立された。

唯一の文学碑である。

世に出ることはなかったが、某温泉(湯治宿)の主人に藤沢は大変世話に

なったという。

この方の所に、装飾されていた「閑古斎の壺」作品が残されていた。

「丁寧な人でね、私たちを忘れないでいてくれるんですよ」と主人。

藤沢の原稿はすべて手書きである。

ある時、同業の田辺聖子氏との会話で「先生の原稿はワープロですか?」

田辺「いいえ、手書きなんですよ」

藤沢「私もシコシコと手書きなんです。良かった仲間がいて・・」と。

そうそう、九兵衛旅館に泊まった時「この部屋は、吉永小百合さんが

泊まっていったんですよ」と。

へぇ~・・、そうだっのか


藤沢周平⑯~どんな人だったのだろう~

2023-10-10 | 藤沢周平作品

藤沢周平氏の作品については、没後多くの方が書いている。

総じて誉め言葉が並ぶ。

だが、その人柄については、あまり触れられていない。

理由は簡単だ。会った事がないのだ。

例えば、「寒梅忌」のメンバーでも、教え子の方たち以外は

ほとんど会っていない。

藤沢氏について著作のある方でさえ、会った方はほとんどいないのだ。

そのなかで、「阿部達二氏」が文藝春秋特別号に、書いている。

阿部氏は、オール読物の編集長だった方。

藤沢周平氏が「遺書(遺書は全集で公開されている)」の中で、葬儀等の

相談相手に指名した人である。

*平成15年12月 発行

阿部氏は文中「~あの温厚な風貌と言動にもかかわらず藤沢周平は

狷介な人ではなかったかと私は思っている。(略)古い物の本には

『狷にはなさざる所あり』とある。(略)『死んでもやらない』という

強い拒絶の意志を示すらしい」と。

意訳すると〈意志強く、ガンコな面がある〉ということか。

そう云えば奥様のエッセィに「曲げない人だから・・」とあったのを

読んだ気がする。

藤沢は、強固な意志で苦難の時を乗り越えたという事なのだろう。


藤沢周平⑮~寒梅忌~の思い出

2023-10-08 | 藤沢周平作品

藤沢周平氏が亡くなったのが、1997年1月だった。

三年後の2000年に、「藤沢周平を偲ぶ第一回寒梅忌」が、故郷鶴岡で開かれた。

2019年20回目を期して「寒梅忌」は終了した。

愛読者や教え子を中心とした集まり「藤沢周平文学愛好会」も、今年(2023年)解散

された。

鶴岡には「藤沢周平」の集まりは、もうなくなったのだろうか?

例えば「記念館」あたりが声掛けして、愛好会のようなのを立ち上げてくれれば

いいのになぁ、などと思う。

「寒梅忌」の打ち合わせには、二度出席させてもらった。

「~10年後をめどに、記念館の建設計画がありますから」という議題が出ていた

頃であるから、随分前のことだけど。

全国には、今も藤沢ファンが沢山いて、読書会を開いている所もあると聞く。

中には、それなりの会費を頂いている所もある、とこれは噂話。

ところで20年続いた「寒梅忌」に、ご遺族の奥様・むすめさん夫婦は

ほとんど出席されなかったようだが、何か訳ありだったのだろうか?

秋の夜長「藤沢周平先生の新作」にお目にかかれないのが、残念だ。

さぁて、なにか藤沢小説を読みながら、ラグビー観戦するかナ・・・


「藤沢周平」⑭~たそがれ清兵衛は、藤沢自身か?~

2023-09-30 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

藤沢作品に「たそがれ清兵衛」という短編が有る。

映画になり、ずいぶん話題にもなった。

*映画のパンフレット

作品は、藤沢の苦労時代そのままである、大方はそう評しているが

現実は、もっと苦しく切なかったのである。

最初の妻を亡くした直後は、乳飲み子を抱え、子守り兼に

呼び寄せた母は目を患い、身動き取れないほどの大変さに

なってしまう。

誰でもいいから、助けて欲しい。手を貸してほしい。

この時期、藤沢は誰かれなく「結婚」を迫ったようである。

後年、藤沢はこの時期の自分を恥じたかのように、封印している。

四度の結婚も隠して措きたかったかもしれない。

「たそがれ清兵衛」に書かれたのは、その当時の一部であろう。

故郷鶴岡への、恨みも封印したままであり、決して語ることも

書くこともなかったのである。

*「たそがれ清兵衛」初出誌 小説新潮 1983年9月号 

昭和58年 56歳

最初の妻「悦子」没後、20年の歳月が過ぎている。

売れっ子作家として活躍し、生活に余裕が生まれて数年経っている。

藤沢にとって、一番良い時期に入っていた頃ではなかったろうか。


「藤沢周平」⑬~四度の結婚~

2023-09-28 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

「幸も不幸もまるごとが人生」(藤沢周平)

・昭和32年 結核療養所篠田病院を退院(30歳)

*ふるさと鶴岡に居場所は得られなかった。恋人とは別れるしかなく、

 教師への復職も叶わず、上京し職を得るしかなかったのである

・昭和32年 教師時代の同僚の紹介で業界新聞K社に入社。

 その後数社を転転とする・・・

藤沢「まぁ、業界紙の小さなところだったんですが、昼間っから酒飲んだり

   麻雀したり、みたいな、性に合わなかったんですね」

・昭和34年8月 三浦 悦子と結婚

藤沢「病院に見舞いに来てくれていて、・・・」

・昭和35年 日本食品経済社に入社。「日本加工食品新聞」の編集者となる

・ 昭和37年 長男 死産

・昭和37年11月~39年8月まで高橋書店発行の月刊誌「読切劇場」

 「忍者読切小説」「忍者小説」に短編小説15篇を発表

藤沢「雑誌社を紹介してくれた人が居て、それで少し発表するように

  なったんですけど、いま読むと、まぁダメですね。」

・昭和38年2月 長女 展子誕生、6月 妻悦子倒れ、10月死去

・昭和39年から「オール読物新人賞」に応募

藤沢「この頃は、何もすることが出来なかった。勤めが終わったらすぐ

  帰らないとダメでしたから、帰っても、小説を書く事しかなかった。」

・昭和39年暮れ 見合い結婚・離婚

藤沢「とにかく、助けて欲しかった。生活が成り立たないほど、

   追い込まれていた感じですよ」

・昭和42年夏 山形の女性と結婚・離婚。(この後しばらく小説を書か

  なかった)

・昭和44年1月 高沢 和子と再婚、以後生活は落ち着いていく

*藤沢氏は、高沢和子さんと結婚するまで、何度か見合いしては断られていた

和子夫人「とにかく何とかしてあげないと、という気持ちでしたね。その時は、

  喫茶店で会ったんですけど、本当にもう・・・」

藤沢は、ようやく日々の生活に落ち着きを得ることが出来、本気で小説に

向かうようになったのである。