残照亭の日日

残り少ない日々、自分の日常や古い話などを時々書きます。
故「藤沢周平」のファン。思い出の作品などを書いてます。

「藤沢周平」⑫~直木賞以前~

2023-09-25 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

藤沢周平が直木賞を受賞したのは、昭和48年第69回「暗殺の年輪」で受賞。

昭和46年・オール読物新人賞(第38回「溟い海」)から2年後である。

直木賞候補には、「溟い海」「囮」「黒い縄」と三度昇ったが、受賞には

至っていない。

藤沢「私は、オール読物新人賞を受賞してのデビューなので、恥ずかしい物は

書けない、という意識があった。暗殺の年輪は、はじめ「手」という題だった

のですが、編集者に勧められて「暗殺の年輪」にした」

藤沢「オール読物新人賞というのは、他の新人賞に比べると、なんというか

格上というか、なんかそういう気持ちがするんですよね」

第68回直木賞候補作「黒い縄」初出所収

別冊文芸春秋 121特別号 9月号

この時期、会社員生活と作家の二足の草鞋だが、作家としては

まだまだ駆け出しであり、筆一本の生活に自信が持てなかった

と云う。

ただし、日常生活は、昭和44年に高沢和子さんという生涯の伴侶を

得て、安定していた。

和子夫人「人助けのつもりで結婚したのよ。

     まさかこれだけの作家になるとは、思ってもいなかった」

後年、笑いながら話していた。


「藤沢周平」⑪~初めの頃は、ユーモア的なのを書くと嫌になった~

2023-09-18 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

藤沢周平の作家デビューは遅い。

昭和46年44歳の時、"溟い海"で「オール読物・新人賞」を受賞し

認められるようになるが、5年ほどはユーモアの有る明るい作品は

藤沢自身、書けなかったという。

 藤沢「時代小説というのはネ、一つのかたちみたいな物ネ、前には

    出来ていたんじゃないか、と思うんですよネ。

    特に、私なんかは、オールのね、新人賞の出身ですから、

    新人賞の作品と言うのは、なんか一つの型があるって言う感じてね

    中味も深刻で、文章も深刻でって言う、そういう一つの型式が有る

   ようで、僕はそういうのはドンドンやめた方がいいと思うんですよね。

   時代小説にユーモアがないって言うと、そんな分けはないと思う訳

   ですよ。

   昔の人なんてネしかつめらしく、さむらいにしてもそうそう毎日毎日

   渋面を作って暮らしていた分けでではないんで、ユーモアだって有っ

   たに違いないわけで、ただ、どんな風にどう書くかって云う事になる

   とネ。いろんな書き方がある訳ですヨ。

   田辺聖子さんみたいなのも在るし、井上ひさしさんみたいな書き方も

   あるんだけど、それは全体の問題でネ。

   一つは、題材でもってユーモア出していく、と。

   一つは文章で持って出して行くと、ドンドン入れたら良いと思うん

   ですよね。

   (略)時々考えちゃうんですよ。

   やっぱりね。どだい私の小説、人生観そのものが、大体、なんて

   言うか、人生を愉快に歩いていないって言うか、そういうものが

   根本にあるもんですから、それだからユーモアも書きますけどね、

   その後、嫌になっちゃうって言うか。その後、深刻なものを書いて

   しまう(笑)

   なんか繰り返しみたいな事をやってますね。」

藤沢の作品は、四度目の結婚にして、ようやく安定した生活ができ

軌道に乗ってからも、生涯を通じて真摯な作が多い


「藤沢周平」⑩~恋・青春時代~

2023-09-17 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

藤沢周平の青春時代は、短かったと云えるだろう。

あえて期間を求めれば、昭和21年5月・19歳の時「山形師範学校入学」から

昭和28年2月・26歳の時、肺結核治療のため東京都北多摩群「篠田病院」に

転院したときに、終わりを告げられたようなものであろう。

師範学校在学中に、故郷鶴岡出身のKさんという女性との、交際。

師範在学中の下宿先で、Kさんに手紙を書く姿は同級の数人に

目撃されている。

結婚の約束をし、親公認だったが、肺結核が判明した昭和26年3月

実際には、この時点でこの恋を諦めざるを得なかった。

この時の出来事と心境を藤沢は、「半生の記」に書いていない。

蒲生や松坂など、同級生にも語っていない。

*蒲生芳郎著 2002年7月1日 初版第一刷

約25年後、某氏に「先生を辞めざるを得なかった話をした時に、

ポツポツとこの恋の顛末を話した」のが、最初で最後だと思われる。

もう一つ某氏に話してはいるが「半生の記」に書かれなかったこと

が有る。が、このことはまたの時に。

K女子は、親の反対を押しきり、「篠田病院」を何度も訪れるのだが、

結局は古き因習に従わざるを得なかった。

この出来事は、初期の藤沢作品に様々な形で、影を落としている。

事実を知らないファンや雑誌関係者が「藤沢の小説は私小説である」と

いう由縁であろう。

初期の藤沢作品の、どこか影落とす一種の暗さ、静謐な清潔感などは、

中期・後期の作品になっても、時折思い出したように、顔を出すことが

有る。

藤沢とK女子は、約40年後ほんのひと時、友人を交えて再会を果たす。

すべての区切りになったのだろうか?


「藤沢周平」⑨~続・時代小説に資料の活かし方~

2023-09-15 | 藤沢周平作品

*敬称略 悪しからず

時代小説を書く時、実際の資料をどのように生かして行くのか?

藤沢「こういう歴史、一体に、昔の人を書く場合、昔と今と共通してい

   る部分ネ、親子の間の感情とか、男と女の間の気持ちとか、

   こういう所はそう大して変わらないところが有る訳ですよネ。

   ところが、昔はこういうふうに考えたけど、いまはまったく

   変わってしまった、と言う部分も有る訳ね。

   で、この二つがですね、均等に出て来ないと、本当の昔のことを

   書いた、とならない訳ですよね。

   共通したところだけ書くと、現代的な物語になりすぎて、

   なんだ昔と大して変わりないじゃないか、昔のロマンスを書いた

   だけじゃないか、と言うことになる訳ですよネ。

       ただ、昔とは変わったんだと云うところだけを書くと、それも

   一面的になっちゃう。

    資料というのは、そういう昔と変わっているところ、

   変わっていないところを証明するものとして残っているわけです

  よね。

  それを、生かす、それを引用するというところで、一遍の小説の

  中に、リアリティを持たすっていうか、なるほどこういう事だっ

  たのかって、納得行くものを、資料として出せばいいんじゃない

  か、と思うんですよネ。」

 

藤沢周平は云う、時代小説(大衆小説)ばかり書いていると、

どうしても歴史小説を書きたくなる・・

『一茶』「長塚節」「義民が駆ける」などである。

「漆の実る国」は、また別の理由があった・・これはいつかまた。

藤沢周平が「これから書くとしたら、平安時代」といっていた作品を

読んでみたかったナ~


「藤沢周平」⑧ ―時代小説と資料の関係―

2023-09-13 | 藤沢周平作品

* 敬称略 悪しからず

時代小説や歴史小説を書く時、資料類はどの程度採用するのだろうか。

藤沢は以下のような見解を示している。

藤沢:非常に難しいんですがね。あの~、資料って言うのはネ、

   あの~、噛み砕いてネ、原文を使わない場合とですネ、

   それから、原文を小説の中にそのまま出して使う場合とネ、

   両方あるわけですよネ。

   これは、時代小説の場合はネ、私は全部こなしてしまって、

   自分の解釈で持って、書くと言うのがモチベーションにして

   るんですよネ。

   歴史小説といった立場でネ書く場合はネ、資料が、これだけ

   長い物が有ると、その中でネ肝心のところ、その資料をのっける

   ことによって、作品が生きるということが有る訳です。

   そういったものはネある程度、そのまま出して使った方がいいと、

   その判断ですかネ。すごく難しいけどね。

   では、どれを資料としてのっけたらいいのかと・・

   例えばネ、こういう風な物が有る訳ですよね。

   こういうふうな物ネ。これはね、一揆の時にですネ、

   この立て札の立てられた土地の人で、一揆に反対した人、

   居るわけですよね。

   他の人は全部賛成して、殿様が国替えになるのを留める

   方に回ったわけです。

   ところが、それをチャンスだと見てネ、立身出世のために、

   敵方というとおかしいけど、あ~、まぁ、そこに替りに来る

   川越藩の手引きをした人が居るわけですネ。

   その人が、一揆の人に憎まれるわけですネ。

   それで、国替えが取り止めになった時に、非常に迫害されたわけ

   です。それで、後で、川越に逃げるんですけど、その後捕まって、

   藩に連れ戻されて、その人は、牢内で死ぬんですけどネ。

   その時に、その人を弾劾するために立てられた立札なんですけど

   ネ、これなんかはネ、文章を意訳してネ、ただ作品の中に書いて

   も、大して意味はないわけです。

   その事実は判っている訳ですからね。

   ところが、こういう文章の中にネ、非常にネ、当時の人の気持ち

   が表れてる訳ですヨ。

   非常に厳しい表現が有る訳ですヨ。

   こういったものは、このまま出さないとネ、あの~、当時の人の

   気持ちが分からない事になるんですよネ。

   これは“義民が駆ける”と言う中に、このまんま書いて有る訳です。

   ここは欠けていて、読めないんですけどネ(虫喰いですね)そう、

   でも、このまま載せている訳です。

「義民が駆ける」昭和51年初版本 中央公論社発行

「義民が駆ける」の表紙裏のサイン

資料の活用について、この項、続く

なかなか作品について、話すところにいけないナ~

まっ、ゆっくり行くさ・・・