□◆ 田中 優 より ◇■□■□
『「終焉の始まり」から三年』
■隕石に当たりまくる日
今月11日、またあの日がやってきた。大震災、津波、そして腹の底から「その日が来てしまった」と体が震えた福島第一原発事故。
あれから3年。
驚くほど事態に変化がない。人々は何事もなかったかのように仕事に出かけ、多少の問題があってもテレビのお笑い番組でも見終わると、「さて」と忘れてしまうようだ。
それでも世論は原発の再稼動に賛成しない人が増えている。そのことは小さな希望だ。
震災は自然災害だが、原発事故は原発さえなければ発生しない災害だった。その日以前に言われていたことをもう一度思い出したい。
「放射能は確かに危険だが、五重の防護があるから心配ない」
「原発事故が起こる確率は、町を歩いていて隕石に当たる確率に等しい」と言われていた。
ところが事故が起こると「放射能はそんなに危険ではない」と言い始め、稀なはずの「隕石に当たった人々」の数は数百万人に上ってしまった。
除染費用の見積もりは総額28兆円、賠償費用は5兆円、汚染水対策や廃炉費用は見通しすら立っていない。しかもそれらの費用は人々の税金と電気料金に乗せられる。
考えてみてほしい。これだけ巨額の負担を人々にさせて、それでも経済は破綻しないだろうか。
■見殺しにすること
そのとき見るべきものは前例だ。チェルノブイリ原発事故の後、旧ソ連は急速に崩壊してCIS(独立国家共同体)に分解されていった。被曝労働者は最初こそ勲章をもらったものの、国家破綻により賠償もなくなり、年金すら反古にされた。
事故後には放射能対策の甘さが目につき、6年経つと居住可能とされた地域の子どもたちのほぼ全員が病気になった。特に多かったのが心臓病や循環器、骨格筋の病変だった。
国家単位でもダメージは大きく、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの汚染三か国は事故後に人口が減り始め、今なお人口増加率はマイナスのままだ。子どもが生まれないためだ。
その頃、日本はせせら笑うようにして「日本では起きない」「日本ならもっときちんと対応する」と言っていた。
ところが日本政府の対応の方が旧ソ連より悪かった。チェルノブイリでは5ミリシーベルト/年の余剰被曝量の地域は強制移住、1ミリシーベルト/年以上なら政府が補償して移住の権利を与えた。
しかし日本では20ミリシーベルト/年の汚染地域に人を住まわせる。
しかも自治体は人口激減で崩壊するのを恐れて帰還させようとし、自主避難した人たちへの補償を減らして帰らざるを得なくしようとしている。それは脱原発を標榜する首長でも同じだ。
これが何を招くのだろうか。
チェルノブイリの現実を福島原発事故の2011年に合わせると、2017年から病気が多発することになるのだ。今、わずか3年で「今でも大丈夫なのだから」という声を聞く。
そのたび「これは見殺しではないか」と思い悩む。
人は信じたいことを信じる。見たくないものを見ないようにして都合の悪いものを無視する。
そして風評被害を訴える。「根も葉もない」のが風評被害だ。
いや前例を見れば明らかに根も葉もあるではないか。これは風評被害ではなく実害だ。しかし多くの仲間と一緒に夢を見るとき、その人たちの中では現実に見えるのだ。
しかし汚染した食品を食べることで体内のセシウム汚染が体重1kg当たり5ベクレルを超えると、心電図に異常が出始める。しかし日本政府の食品基準を信じて食べていくなら体重1kg当たり
320ベクレルに達してしまう。
それなのに「食べて応援」するのだろうか。
目覚めてほしい。あなたとあなたの大切な人を守るには、1kg当たり1ベクレルを超えるものは食べてはいけない。なぜなら体重1kg当たり5ベクレルを超えるからだ。ところが私の声は小さく、残念ながら多くの人たちに届くことはない。そして頭に浮かぶのは「見殺し」という言葉だ。
■将来世代を失わせる岐路
それでも政府は原発を再稼動しようと動いている。規制を強化するはずの原子力規制委員会は被曝量を「100ベクレルでも安全」と述べ、「今の日本の食品基準は欧米に比べて厳しすぎる」などと言っている。委員長自らが放射能に対する危機感が全くないのだ。
欧米の食品基準1000ベクレル/kgは輸入食品に対するもので、「食べ物全体の10%が輸入だったとして」と前提をつける。食品基準はセシウムだけでなく、全放射性物質の基準だ。実際には日本の食品基準(セシウム合計100ベクレル/kg以下)の方が甘いのだ。しかも日本の法律は今でも「余剰被曝基準は年間1ミリシーベルト」のままだ。
「100ベクレルでも安全」とはどこにも書かれていない。
しかも原発は津波ではなく、地震で壊れている。それは岩波書店の雑誌「科学」に書かれたとおりだ。ところが規制委員会が問題にするのは未だに津波だ。骨折にバンソーコーを貼るようなもので、次の事故は防げない。
しかも地震は活性期に入って頻繁に起こるようになり、火山の爆発も増加している。今、青森八甲田山、十和田火山が危険な兆候を示しており、その溶岩流は六ヶ所村再処理工場まで届く危険性がある。原発数千基分の放射性物質を抱える施設だ。
最初に再稼動されそうな川内原発は桜島から近く、当時の人々を絶滅させたほど大きな噴火を起こすカルデラは、九州以南に集中している。百万年保管しなければならない放射性物質だというのに、その爆発から9万年しか経っていない。
これで「大丈夫、保管できる」というのは明らかな詐欺だろう。
原発は今すぐ止めて廃止し、これ以上の放射性廃棄物を増やさないことだ。
この地球は、私たちの世代だけのものではないのだから。ずっと先の世代まで引き継いでいくためには、いくらカネを積まれても、未来の人々の暮らしを売り渡してはならない。
放射能は私たちの遺伝子を壊すだけでなく、壊された遺伝子を次の世代に伝えてしまう。
人類の遺伝子プールに、放射能汚染という毒物を流し込むことになるのだ。
立ち止まって考えよう。
私たちは将来世代を失わせる岐路にいるのだ。
( 川崎市職員労働組合様へ寄稿したものを、好意を得て転載しています。)
田中優の“持続する志”メルマガ 第318号
2014.3.18発行 より
http://tanakayu.blogspot.jp/2014/03/blog-post_7463.html
※このメルマガは転送転載、大歓迎です。
『「終焉の始まり」から三年』
■隕石に当たりまくる日
今月11日、またあの日がやってきた。大震災、津波、そして腹の底から「その日が来てしまった」と体が震えた福島第一原発事故。
あれから3年。
驚くほど事態に変化がない。人々は何事もなかったかのように仕事に出かけ、多少の問題があってもテレビのお笑い番組でも見終わると、「さて」と忘れてしまうようだ。
それでも世論は原発の再稼動に賛成しない人が増えている。そのことは小さな希望だ。
震災は自然災害だが、原発事故は原発さえなければ発生しない災害だった。その日以前に言われていたことをもう一度思い出したい。
「放射能は確かに危険だが、五重の防護があるから心配ない」
「原発事故が起こる確率は、町を歩いていて隕石に当たる確率に等しい」と言われていた。
ところが事故が起こると「放射能はそんなに危険ではない」と言い始め、稀なはずの「隕石に当たった人々」の数は数百万人に上ってしまった。
除染費用の見積もりは総額28兆円、賠償費用は5兆円、汚染水対策や廃炉費用は見通しすら立っていない。しかもそれらの費用は人々の税金と電気料金に乗せられる。
考えてみてほしい。これだけ巨額の負担を人々にさせて、それでも経済は破綻しないだろうか。
■見殺しにすること
そのとき見るべきものは前例だ。チェルノブイリ原発事故の後、旧ソ連は急速に崩壊してCIS(独立国家共同体)に分解されていった。被曝労働者は最初こそ勲章をもらったものの、国家破綻により賠償もなくなり、年金すら反古にされた。
事故後には放射能対策の甘さが目につき、6年経つと居住可能とされた地域の子どもたちのほぼ全員が病気になった。特に多かったのが心臓病や循環器、骨格筋の病変だった。
国家単位でもダメージは大きく、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの汚染三か国は事故後に人口が減り始め、今なお人口増加率はマイナスのままだ。子どもが生まれないためだ。
その頃、日本はせせら笑うようにして「日本では起きない」「日本ならもっときちんと対応する」と言っていた。
ところが日本政府の対応の方が旧ソ連より悪かった。チェルノブイリでは5ミリシーベルト/年の余剰被曝量の地域は強制移住、1ミリシーベルト/年以上なら政府が補償して移住の権利を与えた。
しかし日本では20ミリシーベルト/年の汚染地域に人を住まわせる。
しかも自治体は人口激減で崩壊するのを恐れて帰還させようとし、自主避難した人たちへの補償を減らして帰らざるを得なくしようとしている。それは脱原発を標榜する首長でも同じだ。
これが何を招くのだろうか。
チェルノブイリの現実を福島原発事故の2011年に合わせると、2017年から病気が多発することになるのだ。今、わずか3年で「今でも大丈夫なのだから」という声を聞く。
そのたび「これは見殺しではないか」と思い悩む。
人は信じたいことを信じる。見たくないものを見ないようにして都合の悪いものを無視する。
そして風評被害を訴える。「根も葉もない」のが風評被害だ。
いや前例を見れば明らかに根も葉もあるではないか。これは風評被害ではなく実害だ。しかし多くの仲間と一緒に夢を見るとき、その人たちの中では現実に見えるのだ。
しかし汚染した食品を食べることで体内のセシウム汚染が体重1kg当たり5ベクレルを超えると、心電図に異常が出始める。しかし日本政府の食品基準を信じて食べていくなら体重1kg当たり
320ベクレルに達してしまう。
それなのに「食べて応援」するのだろうか。
目覚めてほしい。あなたとあなたの大切な人を守るには、1kg当たり1ベクレルを超えるものは食べてはいけない。なぜなら体重1kg当たり5ベクレルを超えるからだ。ところが私の声は小さく、残念ながら多くの人たちに届くことはない。そして頭に浮かぶのは「見殺し」という言葉だ。
■将来世代を失わせる岐路
それでも政府は原発を再稼動しようと動いている。規制を強化するはずの原子力規制委員会は被曝量を「100ベクレルでも安全」と述べ、「今の日本の食品基準は欧米に比べて厳しすぎる」などと言っている。委員長自らが放射能に対する危機感が全くないのだ。
欧米の食品基準1000ベクレル/kgは輸入食品に対するもので、「食べ物全体の10%が輸入だったとして」と前提をつける。食品基準はセシウムだけでなく、全放射性物質の基準だ。実際には日本の食品基準(セシウム合計100ベクレル/kg以下)の方が甘いのだ。しかも日本の法律は今でも「余剰被曝基準は年間1ミリシーベルト」のままだ。
「100ベクレルでも安全」とはどこにも書かれていない。
しかも原発は津波ではなく、地震で壊れている。それは岩波書店の雑誌「科学」に書かれたとおりだ。ところが規制委員会が問題にするのは未だに津波だ。骨折にバンソーコーを貼るようなもので、次の事故は防げない。
しかも地震は活性期に入って頻繁に起こるようになり、火山の爆発も増加している。今、青森八甲田山、十和田火山が危険な兆候を示しており、その溶岩流は六ヶ所村再処理工場まで届く危険性がある。原発数千基分の放射性物質を抱える施設だ。
最初に再稼動されそうな川内原発は桜島から近く、当時の人々を絶滅させたほど大きな噴火を起こすカルデラは、九州以南に集中している。百万年保管しなければならない放射性物質だというのに、その爆発から9万年しか経っていない。
これで「大丈夫、保管できる」というのは明らかな詐欺だろう。
原発は今すぐ止めて廃止し、これ以上の放射性廃棄物を増やさないことだ。
この地球は、私たちの世代だけのものではないのだから。ずっと先の世代まで引き継いでいくためには、いくらカネを積まれても、未来の人々の暮らしを売り渡してはならない。
放射能は私たちの遺伝子を壊すだけでなく、壊された遺伝子を次の世代に伝えてしまう。
人類の遺伝子プールに、放射能汚染という毒物を流し込むことになるのだ。
立ち止まって考えよう。
私たちは将来世代を失わせる岐路にいるのだ。
( 川崎市職員労働組合様へ寄稿したものを、好意を得て転載しています。)
田中優の“持続する志”メルマガ 第318号
2014.3.18発行 より
http://tanakayu.blogspot.jp/2014/03/blog-post_7463.html
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