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『孟子』巻第二梁惠王章句下第十七節

2016-06-20 11:45:12 | 漢文解読
                             第十七節
齊の國は、北方の燕の國を攻めて勝利をおさめた。宣王は尋ねた、
「或る者は燕の國を取るなとと言い、或る者は取れと言う。萬乘の大國が萬乘の大國を攻めて、わずか五十日で勝利した。これは我々人の力ではできない事で、天の意思が働いたのだと思う。それだから、もし取らなければ、かえって天罰が降るだろう。そこで私は燕の國を取ろうと思うのだが、どうであろうか。」
孟子は答えた、
「お取りになって燕の民が喜ぶようならお取りなさい。昔の聖王でそのようにされた方がおられます。それは周の武王でございます。しかしお取りになって燕の民が喜ばないようなら、お取りになってはいけません。昔の聖王でそのようにされた方が、周の文王でございます。萬乘の國が萬乘の國を征伐したのに、敵方の民が、竹製の器に飯を入れ飲み物を壺に入れて持参し、王様の軍隊を歓迎いたしましたのは、他でもございません、現在の水火の苦しみから逃れたいからでございます。ところが王様が燕をお取りになって、水がますます深く、火がますます熱くなるように、水火の苦しみが増すような政治を行えば、民の心は王様から離れ、他の下へ転がり込んでいくだけの事でございます。」

齊人伐燕、勝之。宣王問曰、或謂寡人勿取、或謂寡人取之。以萬乘之國伐萬乘之國、五旬而舉之。人力不至於此。不取、必有天殃。取之、何如。孟子對曰、取之而燕民悅、則取之。古之人有行之者、武王是也。取之而燕民不悅、則勿取。古之人有行之者、文王是也。以萬乘之國伐萬乘之國、簞食壺漿、以迎王師、豈有他哉。避水火也。如水益深、如火益熱、亦運而已矣。」

齊人、燕を伐ちて、之に勝つ。宣王問いて曰く、「或ひとは寡人に取る勿れと謂い、或ひとは寡人に之を取れと謂う。萬乘の國を以て、萬乘の國を伐ち、五旬にして之を舉ぐ。人力は此に至らず。取らずんば、必ず天の殃(わざわい)有らん。之を取ること、何如。」孟子對えて曰く、「之を取りて燕の民悅ばば、則ち之を取れ。古の人、之を行う者有り、武王是れなり。之を取りて燕の民悅ばずんば、則ち取ること勿かれ。古の人之を行う者有り、文王是れなり。萬乘の國を以て萬乘の國を伐つ、簞食壺漿して、以て王師を迎うるは、豈に他有らんや。水火を避けんとてなり。水の益々深きが如く、火の益々熱きが如くんば、亦た運らんのみ。」

<語釈>
○「萬乘之國」、「乘」は車、ここでは兵車を指す、この時代の軍隊の主力は兵車で、所持している兵車の數で国の大小を表した。大国は萬乘、その次の諸侯は千乘の國と謂うように。○「五旬」、「旬」は現在の上旬の「旬」と同じで一旬は十日、五旬で五十日。○「簞食壺漿」、「簞」(タン)は、竹製の器、「漿」(ショウ)は、飲み物、飯を竹製の器に入れ、飲み物を壺に入れてという意味。

<解説>
さほど解説の余地はないので、趙岐の章旨を挙げておく。
「征伐の道は、當に民心に順うべし。民心悦ばば、則ち天意得。天意得て、然る後に乃ち以て人の國を取る可きなり。」

『孟子』巻二梁惠王章句下第十六節

2016-06-13 10:36:04 | 漢文解読
                        第十六節
孟子が齊の宣王にお目にかかって言った、
「大きな宮殿をお造りになろうと思われたら、必ず大工の棟梁に命じてそれに見合う大木を探させるでしょう。棟梁が期待通りの大木を入手すれば、王様はお喜びになり、これなら大きな宮殿を造るのに適していると思われます。ところが棟梁が、この巨木を削って小さくすれば、王様はお怒りになられ、これでは大きな宮殿を造るのに適さないとお思いになられます。そこで、志のある人が、幼いころから学問をし、一人前になったら学んだことを実践しようと思っていると、王様は、お前の学んだことはしばらく捨て置いて、私の考えに従えと仰せになられると、どういうことになりましょうか。今、ここにまだ磨いていない玉が有れば、それがいかに高価であっても、自分で手を付けずに、本職の玉造りに磨かせるでしょう。ところが、国家を治めるということになりますと、お前の学んだことは、しばらく捨て置いて、私の考えに従えとおっしゃる。これでは、本職の玉造に玉の磨き方を教えるのと、どこが違うのでしょうか。」

孟子見齊宣王曰、為巨室、則必使工師求大木。工師得大木、則王喜、以為能勝其任也。匠人斲而小之、則王怒、以為不勝其任矣。夫人幼而學之、壯而欲行之。王曰、姑舍女所學而從我、則何如。今有璞玉於此、雖萬鎰、必使玉人彫琢之。至於治國家、則曰、姑舍女所學而從我、則何以異於教玉人彫琢玉哉。

孟子、齊の宣王に見えて曰く、「巨室を為らば、則ち必ず工師をして大木を求めしめん。工師、大木を得ば、則ち王は喜びて、以て能く其の任に勝うと為さん。匠人、斲(けずる)りて之を小にせば、則ち王は怒りて、以て其の任に勝えずと為さん。夫れ人、幼にして之を學び、壯にして之を行わんと欲す。王曰く、『姑(しばらく)く女(なんじ)の學ぶ所を舎きて我に從え。』則ち何如。今此に璞(ハク)玉有らんに、萬鎰と雖も、必ず玉人をして之を彫琢せしめん。國家を治むるに至りては、則ち曰く、『姑く女の學ぶ所を舎きて我に從え。』則ち何を以て玉人に玉を彫琢することを教うるに異ならんや。」

<語釈>
○「以為能勝其任也」、「任」について、工師の任に解して、職務を達成することのできる優れた工師とする説と、木の任に解して、この巨木なら大きな宮殿を造るのに適しているとする説がある。下文の「斲而小之」の句からして、木の任と解するのが妥当だと思う。○「璞玉」、あらたま、まだ磨いていない玉。○「萬鎰」、鎰(イツ)は金銭の単位で、二十兩であるが、「萬鎰」で趙注は衆多の意に解し、朱子は高価の意に解している。今は朱子説が一般的なのでそれに従っておく。

<解説>
大きな宮殿を造るには、それに見合う大木が必要で、それを小さく切ってしまえば意味がない。それと同じで國を治めるにも、せっかく大なる賢者がいてるのに、小にしてそれを無視して自分の考えに従わせるのは、素人が本職に教えるのと同じで、慎むべきことであり、専門家に頼る必要性を説いている。これは國の政治に、孟子を含めて儒者を用いることの必要性を述べているのではないかと思う。

『春秋左氏伝』巻第九襄公六

2016-06-07 10:16:41 | 漢文解読
                      襄公六
『經』
・二十有九年(前544年)、春、王の正月、公、楚に在り。
・夏、五月、公、楚自り至る。
・庚午、衛侯衎(カン)卒す。
・閽(コン、門番、足切の刑に処せられた者がなる)、呉子餘祭を弒す。
・仲孫羯、晉の荀盈・齊の高止・宋の華定・衛の世叔儀・鄭の公孫段・曹人・莒人・滕人・薛人・小邾人に會して杞に城く。
・晉侯、士鞅をして來聘せしむ。
・杞子、來たり盟う。
・呉子、札をして來聘せしむ。
・秋、九月、衛の獻公を葬る。
・齊の高止、北燕に出奔す。
・冬、仲孫羯、晉に如く。

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『孟子』巻二梁惠王章句下第十五節

2016-05-30 10:07:13 | 漢文解読
                          第十五節
齊の宣王が尋ねた。
「殷の湯王は夏の桀王を追放し、周の武王は殷の紂王を討伐したと言うが、それは事実か。」
孟子は答えた。
「古書ではそのように伝えられております。」
「臣下でありながら、自分の君主を殺すというのは、許されるのか。」
「仁を賊う者を賊と言います。義を賊う者を殘と言います。殘賊の人は一介の平民であって、君主たる資格はございません。ですので殘賊の人である桀・紂は君主でなく、単なる一人の平民の男に過ぎません。ひとりの男紂を討伐したとは聞いておりますが、君主の紂を殺したとは聞いておりません。」

齊宣王問曰、湯放桀、武王伐紂。有諸。孟子對曰、於傳有之。曰、臣弒其君、可乎。曰、賊仁者謂之賊。賊義者謂之殘。殘賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣。未聞弒君也。

齊の宣王、問いて曰く、「湯、桀を放ち、武王、紂を伐つ。諸れ有りや。」孟子對えて曰く、「傳に於て之れ有り。」曰く、「臣にして其の君を弒す。可ならんや。」曰く、「仁を賊(そこなう)う者之を賊と謂う。義を賊う者之を殘と謂う。殘賊の人、之を一夫と謂う。一夫紂を誅するを聞く。未だ君を弒するを聞かざるなり。」

<語釈>
○「桀」、「紂」、夏の桀王、殷の紂王は、共に桀紂として古来より暴君の代名詞になっている。○「傳」、いいつたえの義であるが、ここではそのような事を書したものであろう。○「賊」、民心に背き、天命に背く意で、“そこなう”と訓ず。

<解説>
この節は短い文章であるが、昔より問題になっている節らしい。上に立つ人が残賊の人であれば、討伐してもよいということを認めれば、それは革命思想につながる。権力の側に立っている者には容認できる内容ではない。『孟子』にはこのような過激な発言が何か所か有り、江戸時代にはそのような個所を墨で塗りつぶして講義しなかった者もいたらしい。それでは孟子は民の立場に立った革命思想の持主かと言えば、全く逆である。私は孔子以上に権力者側に立った思想家であると思っている。結局、この節の解釈は、宣王に対する戒めを説いたもので、桀紂の話は昔だから許されたので、今と時代が違うのだと割り切る考えに落ち着いているようだ。朱注で引用されている宋の王勉の言を紹介しておく、「斯の言や、唯だ下に在る者に、湯・武の仁有りて、上に在る者に、桀・紂の暴有れば、則ち可なり。然らずんば是れ未だ簒弒の罪を免れず。」

『春秋左氏傳』巻第九襄公五

2016-05-24 10:00:07 | 漢文解読
                        襄公五
     『經』
・二十有六年(前547年)、春、王の二月辛卯、衛の喜、其の君剽を弒す。
・衛の孫林父、戚に入りて以て叛く。
・甲午、衛侯衍、衛に復帰す。
・夏、晉侯、荀呉をして來聘せしむ。
・公、晉人・鄭の良霄(ショウ)・宋人・曹人に澶(セン)淵に會す。
・秋、宋公、其の世子痤を殺す。
・晉人、衛の喜を執らう。
・八月壬午、許男、楚に卒す。
・冬、楚子・蔡侯・陳侯、鄭を伐つ。
・許の霊公を葬る。

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