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『孟子』巻二梁惠王章句下、第十四節

2016-05-16 15:11:03 | 漢文解読
                           第十四節
孟子が齊の宣王に見えて言った、
「由緒ある古い国とは、国を守る神木が立派な大木であることを言うのではありません。世々君を助ける修徳の臣下がいることをいうのです。ところが今の王様は、そのような信任できる臣下がおりません。昨日任用した者が、今日には逃げてしまうかもしれないという事を見抜くことがお出来になりません。」
王は言った、
「私はどのようにしたら、そのような無能な人物を見抜いて用いないようにすることが出来るのか。」
「君主が賢者を任用する際には、誰が見てもこの人を用いるのは当然で、是非任用すべきだ、となって始めて起用するのでなければなりません。身分の低い者を高い者より上位に抜擢し、自分とは疎遠の者を近親の者より上位に置いて用いるのですから、慎重にしなければなりません。左右の者が皆賢者であると謂うだけでは不十分です。諸大夫が皆賢者であると言ってもやはり用いる可きではありません。国じゅうが皆賢者であると言えば、王様が自ら観察して、誠に賢者であるとお認めになればご起用なさいませ。退ける場合も、左右の者があれはいけませんと謂うだけでは不十分です。諸大夫が皆あれはいけませんと言ってもやはり退けるべきではありません。國中が皆退けるべきだと言えば、王様自らよく観察して、退けるべきだと思えば罷免なさいませ。左右の者が皆殺すべきだと言うだけでは不十分です。諸大夫が皆殺すべきだと言ってもやはり殺すべきではありません。國中が皆殺すべきだと言えば、王様自らよく観察して、殺すのが当然であると思えば初めて処刑なさいませ。そうすることによって、王様が処刑なされても、人民が処刑に処したと言われるのです。こうして初めて民の父母となることが出来るのです。」

孟子見齊宣王曰、所謂故國者、非謂有喬木之謂也。有世臣之謂也。王無親臣矣。昔者所進、今日不知其亡也。王曰、吾何以識其不才而舍之。曰、國君進賢、如不得已、將使卑踰尊、疏踰戚、可不慎與。左右皆曰賢、未可也。諸大夫皆曰賢、未可也。國人皆曰賢、然後察之、見賢焉、然後用之。左右皆曰不可、勿聽。諸大夫皆曰不可、勿聽。國人皆曰不可、然後察之、見不可焉、然後去之。左右皆曰可殺、勿聽。諸大夫皆曰可殺、勿聽。國人皆曰可殺、然後察之、見可殺焉、然後殺之。故曰、國人殺之也。如此、然後可以為民父母。

孟子、齊の宣王に見えて曰く、「所謂故國とは、喬木有るの謂を謂うに非ざるなり。世臣有るの謂なり。王には親臣無し。昔者(セキ・ジャ)進むる所、今日其の亡を知らざるなり。」王曰く、「吾、何を以て其の不才を識りて之を舍てん。」曰く、「國君、賢を進むること已むを得ざるが如くす。將に卑をして尊を踰え、疏をして戚を踰えしめんとす。慎まざる可けんや。左右皆賢なりと曰うも、未だ可ならざるなり。諸大夫皆賢と曰うも、未だ可ならざるなり。國人皆賢と曰う、然る後に之を察し、賢なるを見て、然る後に之を用いよ。左右皆不可と曰うも、聽く勿れ。諸大夫皆不可と曰うも、聽く勿れ。國人皆不可と曰う、然る後に之を察し、不可なるを見て、然る後に之を去れ。左右皆殺す可しと曰うも、聽く勿れ。諸大夫皆殺す可しと曰うも、聽く勿れ。國人皆殺す可しと曰う、然る後に之を察し、殺す可きを見て、然る後に之を殺せ。故に曰く、國人之を殺すなり、と。此の如くにして、然る後以て民の父母為る可し。」

<語釈>
○「故國」、趙注:「故」は「舊」なり。由緒正しい古い国のことを言う。○「喬木」、趙注:「喬」は「高」なり。背の高い大木のこと。○「世臣」、世々徳を修めた臣下。○「無親臣」、趙注:今の王、新任す可きの臣無し。○「昔者」、むかしの意であるが、ここでは“セキ・ジャ”と読んで、昨日の意。

<解説>
春秋時代以前は大体において門閥政治である。それが次第に崩れていくのが春秋時代であり、如何に賢者を登用するかが大事になってきた。それを表しているのが、「將に卑をして尊を踰え、疏をして戚を踰えしめんとす。」という言葉である。これが戦国時代になると、更に賢者登用の重要性が高まり、諸子百家、遊説の徒が活躍するようになる。それが落ち着くと、専制君主の下での官僚制の時代になっていく。歴史の流れである。

『春秋左氏傳』巻第九襄公四

2016-05-09 10:09:55 | 漢文解読
                    襄公四
『經』
・二十有三年(前550年)、春、王の二月癸酉朔、日之を食すること有り。
・三月己巳、杞伯カイ(“つつみがまえ”の中に“亡”の字)卒す。
・夏、邾の畀我(ヒ・ガ)來奔す。
・杞の孝公を葬る。
・陳、其の大夫慶虎と慶寅を殺す。
・陳侯の弟黄、楚自り陳に歸る。
・晉の欒盈、復た晉に入り、曲沃に入る。
・秋、齊侯、衛を伐ち、遂に晉を伐つ。
・八月、叔孫豹、師を帥いて晉を救い、雍楡に次す。
・己卯、仲孫速卒す。
・冬、十月乙亥、臧孫紇、邾に出奔す。
・晉人、欒盈を殺す。
・齊侯、莒を襲う。

『傳』
・二十三年、春、杞の孝公卒す。晉の悼夫人(杜注:悼夫人は晉の平侯の母、杞の孝公の姊妹)、之に喪す。平侯、樂を徹せず。禮に非ざるなり。禮は、鄰國の為にも闕く(楊注:「闕」は即ち徹樂。隣国でも喪があれば、樂を徹するのが禮である)。

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『孟子』巻九梁惠王章句下第十三節

2016-05-03 10:24:10 | 漢文解読
第十三節
孟子が齊の宣王に言った、
「王様のご家来で、自分の妻子を友人に預けて、楚の国へ旅行に行った者がいるとして、その者が国に帰ってきたら、友人が妻子を凍え飢えさせていたとしたら、その者をどうなさいますか。」
王は言った、
「そのような者は見限って、用いない。」
「裁判官がその部下を上手に管理することが出来ず、職務を果たせないとしたら、どうなさいますか。」
王は言った、
「これを罷免するであろう、」
「それでは、国内が治まらなかったら、どうなさいますか。」
王は自分の責任を言われていることに気づき、返事に困ってしまい、左右の者を見て、話をそらしてしまった。

孟子謂齊宣王曰、王之臣有託其妻子於其友、而之楚遊者、比其反也、則凍餒其妻子、則如之何。王曰、棄之。曰、士師不能治士、則如之何。王曰、已之。曰、四境之內不治、則如之何。王顧左右而言他。

孟子、齊の宣王に謂いて曰く、「王の臣、其の妻子を其の友に託して、楚に之きて遊ぶ者有らんに、其の反るに比びてや、則ち其の妻子を凍餒(トウ・ダイ)せば、則ち之を如何せん。」王曰く、「之を棄てん。」曰く、「士師、士を治むること能わずんば、則ち之を如何せん。」王曰く、「之を已めん。」曰く、「四境の內、治まらずんば、則ち之を如何せん。」王、左右を顧みて他を言う。



<語釈>
○「遊」、日本語の遊ぶとは意味が少し違い、その地へ出かけることを言う。○「凍餒」、「餒」(ダイ)は飢える意、凍え飢えること。○「棄之」、解釈に二説がある、趙注、朱子は、友人と絶交する意に解する、安井息軒を始めとしてわが国では、文字通り棄て去る意に解する人が多い、最初に「王之臣」という言葉が有るのが根拠になっている、私もそれに賛成である。○「士師」、趙注:「士師」は、獄の官吏なり。監獄の番人ではない、裁判官のような訴訟を掌る者、猶ほこの下の「士」は部下の官吏そ指す。○「王顧左右而言他」、趙注:王、慙ぢて、左右顧みて視、他事を道う。

<解説>
さほど解説の余地もないので、趙岐の章旨を挙げておく。
「君臣上下、各々其の任に勤め、其の職を堕ること無くんば、乃ち其の身を安んずるなり。」

『孟子』巻二梁惠王章句下第十二節

2016-04-26 10:23:29 | 漢文解読
                           第十二節
齊の宣王が尋ねた。
「臣下達が、泰山の麓に在る天子の為の古い明堂を、もう必要がないので壊せと私に勧めるのだが、壊したものだろうか、それとも壊さずにおいたものだろうか。」
孟子は答えた。
「そもそも明堂というものは、王者の堂でございます。王様が王者の政治を行いたいと願うなら、壊してはいけません。」
王は言った。
「王者の政治とは如何なるものか、聞かせてもらえるだろうか。」
孟子は答えた。
「昔、周の文王が、領地の岐を治めておられた頃、農夫からは、井田法に基づいて九分の一という輕い税を取り、仕えている者には、俸禄を世襲させて生活を安定させ、関所や市場では怪しい者を取り締まるだけで、通行税や物品税などは取らず、沼沢や魚梁では自由に魚を取ることを許し、罪を犯したものを罰するのは本人だけで、妻子まで連座させませんでした。年老いて妻のいない者を鰥(カン)と言い、年老いて夫のいない者を寡(カ)と言い、年老いて子供のいない者を独と言い、幼くして父のいない者を孤と言います。この四者は、世の中で最も困窮した民で、どれだけ困っていても助けてくれる人がいない孤独な者たちでございます。文王は政令を発して仁政を行うに当たっては、必ずこの四者を救うことを優先させました。『詩経』(小雅の正月篇)にも、よきかな富める人は、このよるべのない孤独な人たちを哀れもう、と歌われております。」
王は言った、
「よい話だ。」
「王様は私がお話しした事を本当に良いことだと思われるなら、何故それを行おうとなされないのですか。」
王は言った、
「私には悪い癖が有る。それは欲が深くて財貨を好むという癖なのだ。」
孟子は答えた、
「昔の周の先祖で名君と言われている公劉も財貨が好きでした。公劉が都を遷すことを歌った『詩経』(大雅の公劉篇)にも、『穀物を倉の中も外も十分に積んで、残る者に与えた。乾食を小袋や大袋に詰め込んで、往く者に与え、民を集めて安らかにして國を光り輝かせようとした。そこで弓を張り、干戈や斧鉞の武具を整えて、新しい地へ出発した。』とあります。このように居残る者には十分な食料を倉に積み込み、共に行く者には、十分な食料を袋に詰め込ませて、始めて安心して新しい地へ出発することが出来たのです。王様も財貨を好まれるのでしたら、その利を民と共有なされば、王者と為るのに何の差支えもありません。」
王は言った、
「私にはもう一つ悪い癖が有る。私は色好みなのだ。」
答えて言った、
「昔、周の大王古公亶甫も色を好み、その妃を愛されました。『詩経』(大雅、緜篇)にも、『古公亶甫、朝から馬を走らせて、西水の川辺の道に沿って岐山の麓までやってきて、そこで連れてきた妃の姜女と共に暮らされました。』と歌われております。このように大王が一人の妃を愛しておられましたので、その当時は、婚期を逸するような娘は居らず、妻を持てない寂しい男は居りませんでした。王様が若し色を好むのであれば、大王のようにお手本を示して、民と楽しみを共になさいませ。そうすれば王者と為るのに何の差支えもございません。」

齊宣王問曰、人皆謂我毀明堂。毀諸、已乎。孟子對曰、夫明堂者、王者之堂也。王欲行王政、則勿毀之矣。王曰、王政可得聞與。對曰、昔者文王之治岐也、耕者九一、仕者世祿、關市譏而不征、澤梁無禁、罪人不孥。老而無妻曰鰥、老而無夫曰寡、老而無子曰獨、幼而無父曰孤。此四者、天下之窮民而無告者。文王發政施仁、必先斯四者。詩云、矣富人、哀此煢獨。王曰、善哉言乎。曰、王如善之、則何為不行。王曰、寡人有疾、寡人好貨。對曰、昔者公劉好貨。詩云、乃積乃倉、乃裹餱糧。于橐于囊。思戢用光。弓矢斯張、干戈戚揚。爰方啓行。故居者有積倉、行者有裹糧也。然後可以爰方啓行。王如好貨、與百姓同之、於王何有。王曰、寡人有疾。寡人好色。對曰、昔者大王好色、愛厥妃。詩云、古公亶甫、來朝走馬、率西水滸、至于岐下。爰及姜女、聿來胥宇。當是時也、內無怨女、外無曠夫。王如好色、與百姓同之、於王何有。

齊の宣王問いて曰く、「人皆我に明堂を毀てと謂う。諸を毀たんか、已めんか。」孟子對えて曰く、「夫れ明堂なる者は、王者の堂なり。王、王政を行わんと欲せば、則ち之を毀つこと勿れ。」王曰く、「王政聞くことを得可きか。」對えて曰く、「昔者、文王の岐を治むるや、耕す者は九の一、仕うる者は禄を世々にし、關市は譏して征せず、澤梁は禁無く、人を罪するに孥(ド)せず。老いて妻無きを鰥(カン)と曰い、老いて夫無きを寡と曰い、老いて子無きを獨と曰い、幼にして父無きを孤と曰う。此の四者は、天下の窮民にして告ぐる無き者なり。文王、政を發し仁を施すに、必ず斯の四者を先にせり。詩に云う、『(カ)なり富める人、此の煢獨(ケイ・ドク)を哀れむ。』」王曰く、「善きかな言や。」曰く、「王、如し之を善しとせば、則ち何為れぞ行わざる。」王曰く、「寡人、疾有り、寡人、貨を好む。」對えて曰く、「昔者、公劉、貨を好めり。詩に云う、『乃ち積し乃ち倉す。乃ち餱糧(コウ・リョウ)を裹(つつむ)む。橐(タク)に囊(ノウ)に。戢(あつめる)めて用て光(おおいに)いにせんことを思う。弓矢斯に張り、干戈戚揚あり。爰(ここ)に方(はじめ)めて行を啓く。』故に居る者は積倉有り。行く者は裹(カ)糧有り。然る後以て爰に方めて行を啓く可し。王如し貨を好むも、百姓と之を同じうせば、王たるに於いて何か有らん。」王曰く、「寡人疾有り。寡人色を好む。」對えて曰く、「昔者、大王、色を好み、厥の妃を愛せり。詩に云う、『古公亶甫、來りて朝に馬を走らせ、西水の滸(ほとり)に率い、岐下に至る。爰に姜女と、聿(ともに)に來りて胥宇る。』是の時に當りて、內に怨女無く、外に曠夫無し。王如し色を好むも、百姓と之を同じうせば、王たるに於いて何か有らん。」

<語釈>
○「明堂」、趙注:泰山の下の明堂を謂う、本周の天子、東に巡狩し、諸侯を朝せしむるの處なり。今は天子が巡狩することもないので、壊してしまえという意見がある。○「耕者九一」、これは古代実施されていたと言われる田制の井田法のことを言っている。田地九百畝を百畝ごとに九分割し、八家に百畝づつ外の八百畝を支給し、真ん中の百畝を公田として八家が耕作して、収穫物を國に納めた。故に九の一と言う。この井田法はそのまま信じることはできず、議論の多い所である。○「譏而不征」、「譏」は「察」の義で、怪しい者を調べること、「征」は税の義で、不征は税金を足らない事。○「澤梁」、「澤」は沼、「梁」は川で魚を取る仕掛けの、やなのこと。○「孥」、音はド、妻子の意。○「詩云、矣富人、哀此煢獨」、『詩経』小雅の正月篇に在り、詩云、「」は「可」に同じ、「煢」(ケイ)は「獨」と同義、「煢獨」で孤独な者で、上文の四者を指す。他説もあるが、趙注により解釈した。○「乃積乃倉」、「積」は野積み、「倉」倉の中に積むこと、倉の中も十分に穀物が蓄えられ、外にも積まれている状態を述べている。○「餱糧」、乾食(ほしいい)。○「橐」「囊」、橐(タク)は小袋、「囊」(ノウ)は大袋。○「戚揚」、趙注:「戚」は斧、「揚」は鉞。○「聿來胥宇」、「聿」は「俱」、「胥」は「相」、「宇」は「居」、毛伝及び趙注の説、他説もある。○「怨女」、夫を得ざる女。○「曠夫」、妻を得ざる男。

<解説>
この節も前節に続いて、王道について述べている。前節では、流連の楽しみや、荒亡の行い無く、民と共に楽しむことが王者への道であると説かれており、この節では、貨と色を持ち出して、それを頭から否定するのではなく、民と共有し、共に楽しめば王者と為るのに何の差支えもないと説いている。このあたりの論の進め方が、孟子が孟子たる所以である。以後もこのような論の進め方が多々出てくる。私の孟子に対する印象は、思想家と言うよりも弁舌家の観が強い。

『春秋左氏伝』巻九襄公三

2016-04-18 10:17:05 | 漢文解読
                      襄公三
『經』
 ・十有六年(前557年)、春、王の正月、晉の悼公を葬る。
 ・三月、公、晉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・薛伯・杞伯・小邾子に湨(ケキ)梁に會す。
・戊寅、大夫盟う。
・晉人、莒子・邾子を執らえて以て歸る。
・齊侯、我が北鄙を伐つ。
・夏、公、會自り至る。
・五月甲子。地震う。
・叔老、鄭伯・晉の荀偃・衛の殖・宋人に會して許を伐つ。
・秋、齊侯、我が北鄙を伐ち、成を圍む。
・大雩す。
・冬、叔孫豹、晉に如く。

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