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『大学』第二章第一節

2012-08-02 14:57:49 | 漢文
史記の解読 http://www.eonet.ne.jp/~suqin

第二章 第一節

前述した「其の意を誠にする」とは、自ら自分の真心を偽らないことである。人が悪臭を悪み、好色を好むのは自然に出でる真情である。このように事の善悪も偽りを入れずに、自然と善を好み、悪を悪み、口に言う所と心に思う所が一致するようにするのである。かくしてこそ人は自ら心に厭き足りて、満足できると言えるだろう。だから君子は誰も見ておらず独りで居るときも必ず真心を以て自分自身を修めようとするのである。それに対して物事を理解できない小人は、誰も見ていない一人でいるときは不善を為すことを何とも思わないが、君子の前に出るとその不善を覆い隠し、いかにも善いことを行っているように見せかける。しかし人は己をよく見ているもので、それは己の体内の肺臓や肝臓まで見透かすほどである。であるので君子の前で幾ら覆い隠し取り繕っても、それは無駄である。これを「心に誠があれば自ずから外に善事となって顕れる。」と謂うのである。だから君子は一人で入るときも真心を以て身を修めようとするのである。曾子は、「己の考えや行動は、多くの人が、注視し指差し注意している所であるから、常に我が身を畏れ慎まねばならない。」と謂っている。富は家を潤すだけだが、徳は身を潤す。乃ち畏れ慎み徳を修めて心が広大になれば、体もゆたかになる。故に君子は必ず自分の意を誠にするのである。

所謂誠其意者、毋自欺也。如惡惡臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必慎其獨也。小人閑居為不善、無所不至。見君子而後厭然掩其不善、而著其善。人之視己、如見其肺肝、然則何益矣。此謂誠於中形於外。故君子必慎其獨也。曾子曰、十目所視、十手所指、其嚴乎。富潤屋,潤身,心廣體胖,故君子必誠其意。

謂う所の其の意を誠にするとは、自ら欺く毋きなり。惡臭を悪むが如く、好色を好むが如くす。此れを之れ自謙すと謂う。故に君子は必ず其の獨を慎むなり。小人は閑居して不善を為すこと、至らざる所無し。君子を見て而る後に厭然として其の不善を掩い、而して其の善を著わさんとす。人の己を視ること、其の肺肝を見るが如くなれば、然れば則ち何の益あらん。此を中に誠なれば外に形ると謂う。故に君子は必ず其の獨を慎むなり。曾子曰く、「十目の視る所、十手の所指す所、其れ嚴(つつしむ)まんかな。」富は屋を潤し、は身を潤す。心は廣く體は胖(おおい)いなり、故に君子は必ず其の意を誠にす。

<語釈>
○「自謙」、「謙」は鄭注によれば、慊であり、厭である。その意は厭足、乃ち満足する、あき足ることである。自謙とは自ら心に厭き足るを云う。○「君子必慎其獨」、『中庸』の鄭注に、「独り慎むとは其れ居の為す所を慎むなり。」とある。○「居」、独りくつろいでいるとき。○「厭然」、覆いかぶせて隠すさま。○「嚴乎」、鄭注に、「嚴乎は畏敬す可きを言うなり。」とある。○「心廣體胖」、「胖」は鄭注に、「胖は猶ほ大のごときなり。」とあり、ゆたかに広がったさまを言う。正義は、「心廣體胖は、内に心、寛廣なれば、則ち外に體、胖大なるを言う。」と述べている。

<解説>
これ以降は朱子が伝であると述べているように、第一章で説いていることの解説になっていく。ここでは「意を誠にする」について解説している。乃ち「意を誠にする」とは、自分の真心を偽らないことで、それが一人で居るときも、人に見られているときも、常に自然と外に現れるように我が身を修徳することである、としている。人は他人が見ているときは善事に務めるが、誰も見ていなければ、悪事を、特に小さな悪事を犯しがちである。