第二十節
滕の文公が孟子に尋ねた、
「我が滕の国は小国で、齊と楚の二大国に挟まれており、どちらかに頼らなければ、國を保つことが出来ない。齊に仕えたものだろうか、楚に仕えたものだろうか。」
孟子は答えた、
「その問題は私の考えの及ぶ所ではありません。どうしてもと言うのであれば、ここに一つの考えが有ります。このお城の堀を深くし、この城壁を高くし、一旦事が有れば人民と共にこの城を守り、たとい死が迫っていても王様を見捨てて逃げださぬというようにすることはできます。」
滕文公問曰、滕小國也。間於齊楚。事齊乎、事楚乎。孟子對曰、是謀非吾所能及也。無已、則有一焉。鑿斯池也、築斯城也、與民守之、效死而民弗去、則是可為也。
滕の文公問いて曰く、「滕は、小國なり。齊・楚に閒す。齊に事えんか、楚に事えんか。」孟子對えて曰く、「是の謀は吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已む無くんば、則ち一有り。斯の池を鑿ち、斯の城を築き、民と與に之を守り、死を效すも民去らざるは、則ち是れ為す可きなり。」
<語釈>
○「鑿斯池」、池は城の堀、それを深くすること。○「築斯城」、築くとは、城壁を高くすること。
<解説>
解説の代わりに趙注を挙げておく、
「孟子、二大国の君、皆禮に由らざるを以て、我、誰か事うる可き者かを知ること能わず。已むを得ざれば一謀有り。惟れ徳義を施して以て民を養い、民と與に城池を堅守し、死するに至るも、民をして畔去せしめずんば、則ち為す可し。」
第二十一節
滕の文公が孟子に尋ねた、
「齊の国が、国境近くの薛に城を築こうとしている。私は甚だこれを心配しているのだが、どうしたらよいだろうか。」
孟子は答えた、
「昔、周の大王古公亶甫は邠に居られましたが、狄人が侵入してきたので、ここを去って、岐山の麓に移り住みました。これは自分でこの地を選んだ訳ではありません。難を避けるためにやむを得ずこの地に来たのです。しかし故郷を追われ地を失っても、善い政治を行ってさえいれば、周のように必ず子孫に天下の王者となる者が現れてまいります。君子と言われる者は、事業を起こし、其の進むべき道を指し示し、子孫がそれを継承できるようにします。それが成功するか否かは、天命に因るのです。あの齊のやることに対して、王様は今更どうすることもできません。唯だ務めて善い政治を行う努力をするだけでございます。」
滕文公問曰、齊人將築薛。吾甚恐。如之何則可。孟子對曰、昔者大王居邠。狄人侵之。去之岐山之下居焉。非擇而取之。不得已也。苟為善、後世子孫必有王者矣。君子創業垂統、為可繼也。若夫成功、則天也。君如彼何哉。彊為善而已矣。
滕の文公問いて曰く、「齊人、將に薛に築かんとす。吾甚だ恐る。之を如何せば則ち可ならん。」孟子對えて曰く、「昔者、大王、邠(ヒン)に居る。狄人、之を侵す。去りて、岐山の下に之きて居る。擇びて之を取るに非ず。已むを得ざればなり。苟くも善を為さば、後世子孫、必ず王者有らん。君子、業を創め統を垂れ、繼ぐ可きを為す。若し夫れ功を成さば、則ち天なり。君、彼を如何にせんや。彊めて善を為すのみ。」
<語釈>
○、「大王」、周の文王の祖父、古公亶甫。
<解説>
趙岐の章指を挙げておく。
「君子の道は、己を正し、天に任ず。強暴の來たるは、己の招く所に非ず。窮すれば、則ち獨り其の身を善くする者を謂うなり。」
滕の文公が孟子に尋ねた、
「我が滕の国は小国で、齊と楚の二大国に挟まれており、どちらかに頼らなければ、國を保つことが出来ない。齊に仕えたものだろうか、楚に仕えたものだろうか。」
孟子は答えた、
「その問題は私の考えの及ぶ所ではありません。どうしてもと言うのであれば、ここに一つの考えが有ります。このお城の堀を深くし、この城壁を高くし、一旦事が有れば人民と共にこの城を守り、たとい死が迫っていても王様を見捨てて逃げださぬというようにすることはできます。」
滕文公問曰、滕小國也。間於齊楚。事齊乎、事楚乎。孟子對曰、是謀非吾所能及也。無已、則有一焉。鑿斯池也、築斯城也、與民守之、效死而民弗去、則是可為也。
滕の文公問いて曰く、「滕は、小國なり。齊・楚に閒す。齊に事えんか、楚に事えんか。」孟子對えて曰く、「是の謀は吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已む無くんば、則ち一有り。斯の池を鑿ち、斯の城を築き、民と與に之を守り、死を效すも民去らざるは、則ち是れ為す可きなり。」
<語釈>
○「鑿斯池」、池は城の堀、それを深くすること。○「築斯城」、築くとは、城壁を高くすること。
<解説>
解説の代わりに趙注を挙げておく、
「孟子、二大国の君、皆禮に由らざるを以て、我、誰か事うる可き者かを知ること能わず。已むを得ざれば一謀有り。惟れ徳義を施して以て民を養い、民と與に城池を堅守し、死するに至るも、民をして畔去せしめずんば、則ち為す可し。」
第二十一節
滕の文公が孟子に尋ねた、
「齊の国が、国境近くの薛に城を築こうとしている。私は甚だこれを心配しているのだが、どうしたらよいだろうか。」
孟子は答えた、
「昔、周の大王古公亶甫は邠に居られましたが、狄人が侵入してきたので、ここを去って、岐山の麓に移り住みました。これは自分でこの地を選んだ訳ではありません。難を避けるためにやむを得ずこの地に来たのです。しかし故郷を追われ地を失っても、善い政治を行ってさえいれば、周のように必ず子孫に天下の王者となる者が現れてまいります。君子と言われる者は、事業を起こし、其の進むべき道を指し示し、子孫がそれを継承できるようにします。それが成功するか否かは、天命に因るのです。あの齊のやることに対して、王様は今更どうすることもできません。唯だ務めて善い政治を行う努力をするだけでございます。」
滕文公問曰、齊人將築薛。吾甚恐。如之何則可。孟子對曰、昔者大王居邠。狄人侵之。去之岐山之下居焉。非擇而取之。不得已也。苟為善、後世子孫必有王者矣。君子創業垂統、為可繼也。若夫成功、則天也。君如彼何哉。彊為善而已矣。
滕の文公問いて曰く、「齊人、將に薛に築かんとす。吾甚だ恐る。之を如何せば則ち可ならん。」孟子對えて曰く、「昔者、大王、邠(ヒン)に居る。狄人、之を侵す。去りて、岐山の下に之きて居る。擇びて之を取るに非ず。已むを得ざればなり。苟くも善を為さば、後世子孫、必ず王者有らん。君子、業を創め統を垂れ、繼ぐ可きを為す。若し夫れ功を成さば、則ち天なり。君、彼を如何にせんや。彊めて善を為すのみ。」
<語釈>
○、「大王」、周の文王の祖父、古公亶甫。
<解説>
趙岐の章指を挙げておく。
「君子の道は、己を正し、天に任ず。強暴の來たるは、己の招く所に非ず。窮すれば、則ち獨り其の身を善くする者を謂うなり。」