三十七節
孟子は齊の大夫蚔鼃に向かって言った、
「あなたが靈丘の役人を辞して、諫官を希望されたのは、道理にかなった真に結構な事ですね。王様に直接意見を具申する職責ですから。そこで、あなたがこの官に就かれて数か月たちましたが、まだ王様に申し上げることは何もないのですか。」
蚔鼃はこの忠告に因り、早速王様を諫めたが、容れられず、職を辞して去った。齊の人々は言った、
「蚔鼃の為にあのような忠告をしたのは善い事であるが、孟先生はどうされるおつもりなのか、分かったものではない。」
これを聞いた弟子の公都子は孟子に告げると、孟子は言った、
「私は、官に就いている者が、その職責を果たすことが出来なければ辞職し、意見を述べる立場に在る者が、その意見を用いられなければ辞職するものだと、聞いている。私は官職についているわけでもなく、意見を述べる職責があるわけでもない。だから私の進退はそのような事に縛られずに、余裕綽々であってよいはずである。」
孟子謂蚔鼃曰、子之辭靈丘而請士師、似也。為其可以言也。今既數月矣、未可以言與。蚔鼃諫於王而不用。致為臣而去。齊人曰、所以為蚔鼃、則善矣。所以自為、則吾不知也。公都子以告。曰、吾聞之也。有官守者、不得其職則去、有言責者、不得其言則去。我無官守、我無言責也。則吾進退、豈不綽綽然有餘裕哉。
孟子、蚔鼃(チ・ア)に謂いて曰く、「子の靈丘に辭して士師を請うは、似たり。其の以て言う可きが為なり。今、既に數月なり。未だ以て言う可からざるか。」
蚔鼃、王を諫めて用いられず。臣為ることを致して去る。齊人曰く、「蚔鼃の為にする所以は、則ち善し。自ら為にする所以は、則ち吾知らざるなり。」公都子、以て告ぐ。曰く、「吾、之を聞く。官守有る者は、其の職を得ざれば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ざれば則ち去る、と。我、官守無く、我、言責無きなり。則ち吾が進退は、豈に綽綽然として餘裕有らずや。」
<語釈>
○「士師」、趙注:獄を治める官。十三節に既出、ここでは司法長官の役割より、諫言を主とした職務を言っている。○「似也」、朱注:似也は、言の為す所、理有るに近似す。言うことが道理にかなっているという意味。○「綽綽然」、ゆとりのある貌。余裕綽々という言葉の典拠である。
<解説>
解説する必要性はないと思うが、私には孟子の態度は狡く感じられる。
三十八節
孟子が齊の客卿だったとき、王命により滕君の喪を弔いに出かけた。蓋の大夫王驩が補佐を務めた。王驩は孟子を正使として立てて、朝夕の挨拶をかかさなかったが、齊と滕を往復する間、孟子は一度も王驩と使者の仕事について話し合わなかった。そこで弟子の公孫丑が尋ねた、
「先生の齊の卿という地位は決して低いものではありません。齊と滕の間の道のりも決して近いものではありません。それなのにこの往復の間に使命について王驩と一度も話し合おうとされなかったのは、何故でございますか。」
「あの男が何もかも知っていて独断で行っているようなので、私は何も言う必要はないではないか。」
孟子為卿於齊。出弔於滕。王使蓋大夫王驩為輔行。王驩朝暮見。反齊滕之路、未嘗與之言行事也。公孫丑曰、齊卿之位、不為小矣。齊滕之路、不為近矣。反之而未嘗與言行事、何也。曰、夫既或治之。予何言哉。
孟子、齊に卿為り。出でて滕に弔す。王、蓋の大夫王驩をして輔行為らしむ。王驩、朝暮に見ゆ。齊滕の路を反し、未だ嘗て之と行事を言わざるなり。公孫丑曰く、「齊卿の位は、小と為さず。齊滕の路は、近しと為さず。之を反して未だ嘗て與に行事を言わざるは、何ぞや。」曰く、「夫れ既に之を治むる或り。予何をか言わんや。」
<語釈>
○「孟子為卿於齊」、この卿は家臣の卿でなく、賓客として卿の待遇を受けている。客卿である。○「輔行」、副使。
<解説>
文章そのものは難しい箇所もなく、平易な文であるが、その趣旨は大雑把すぎてよく分からない。何故孟子は王驩と口を聞くのを嫌ったのか。それについて、趙注は云う、王驩は齊の諂人なり、王に寵有り、後に右師と為る、孟子、其の人と為りを悦ばずして、與に使いを同じくして行くと雖も、未だ嘗て之と言わず、と。