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『孟子』巻五藤文公章句上 五十一節

2017-05-08 11:10:42 | 四書解読
五十一節

墨子学派の夷之が、孟子の弟子の徐辟を通じて孟子に会見を申し入れた。それを聞いた孟子は、
「私もお会いしたいと思っているのだが、今はあいにく病に臥せっている。治り次第おうかがいするつもりですので、今はおいで下さらないようにお願いします。」
と言わせた。その後夷之は又会見を求めてきた。孟子は言った。
「今なら会うことが出来る。直言してその誤りを正さなければ、正しい道は明らかにならないから、今日ははっきりと言わせてもらおう。夷子は墨子学派と聞いているが、墨子学派では喪儀は質素に行う主義だという。夷子はその墨子の教えに従って世の中を変えようとしているのだから、その教えを間違いだとして尊重しないことはないはずだ。それなのに自分の親は手厚く葬っている。それでは自分が軽蔑しているやり方で親に仕えたことになる。」
徐子は孟子の言葉を夷子に告げると、夷子は言った、
「儒者の言葉に、古の王は民を安んずること、赤子を抱くが如し、とありますが、これはどういう意味ですか。私は、愛は尊卑上下の差はないが、実際に行う場合は親しいものから始めて他に及ぼして行くと言う意味だと思いますが。」
徐子はこの言葉を孟子に告げた。孟子は言った。
「あの夷子は、本当に自分の兄の子と隣の赤ん坊とを同じ親しいものだと考えているのだろうか。あの書経の言葉は他の意味があるのだ。赤ん坊がはって行って井戸に落ちそうになると、誰もがかけよって助けるだろう。それは赤ん坊の罪ではなく、保護者の罪である。だから民の保護者である君主は、民を赤ん坊のようにしっかりと守らなければならないというのが、あの言葉の意味なのだ。さらに天が物を生みだすには、一つの根本に基づいているはずだ。人間も自分を生んだ親は一つである。それを夷子は子供への愛は、その子の親も他人の親も同じだと考え無差別の愛を主張している。これは天が物を生み出す根本は二つであると主張していることになる。思うに大昔には、親が死んでも葬らない時代があったようだ。ところが当時のある人が、親が亡くなったので、その亡骸を谷閒に棄てた。後日そこを通りかかると、狐や狸が亡骸を食らい、ハエ・ぶよ・けら等が群がり食らいついていた。そのあまりにもおぞましい光景に、額に冷や汗をかき正視することが出来なかった。この冷や汗は他人の目に恥ずかしいと思ったのでなく、親に対して申し訳ないという気持ちが心の底から顔に出たのである。おそらく、その男は家に帰り、もっことかごを持ってきてその亡骸を埋めたにちがいない。亡骸を埋めるのが誠に人の情として妥当であれば、孝行息子や仁愛深い人がその情に基づいて親を手厚く葬るのは、まさに道理のあることではないだろうか。」
徐子がこの言葉を夷子に告げると、夷子は納得しきれずしばらく黙っていたが、やがて、
「よくわかりました。」
と言った。

墨者夷之、因徐辟而求見孟子。孟子曰、吾固願見、今吾尚病。病愈、我且往見。夷子不來。」他日又求見孟子。孟子曰、吾今則可以見矣。不直、則道不見。我且直之。吾聞夷子墨者。墨之治喪也、以薄為其道也。夷子思以易天下。豈以為非是而不貴也。然而夷子葬其親厚。則是以所賤事親也。徐子以告夷子。夷子曰、儒者之道、古之人、若保赤子、此言何謂也。之則以為愛無差等、施由親始。徐子以告孟子。孟子曰、夫夷子、信以為人之親其兄之子為若親其鄰之赤子乎。彼有取爾也。赤子匍匐將入井、非赤子之罪也。且天之生物也、使之一本。而夷子二本故也。蓋上世嘗有不葬其親者。其親死、則舉而委之於壑。他日過之、狐狸食之、蠅蚋姑嘬之。其顙有泚。睨而不視。夫泚也、非為人泚、中心達於面目。蓋歸、反虆梩而掩之。掩之誠是也、則孝子仁人之掩其親、亦必有道矣。徐子以告夷子。夷子憮然為閒曰、命之矣。

墨者夷之、徐辟に因りて孟子を見るを求む。孟子曰く、「吾固より見んことを願うも、今吾尚ほ病めり。病愈えなば、我且に往きて見んとす。夷子來たらざれ。」
他日又孟子を見るを求む。孟子曰く、「吾今則ち以て見る可し。直さざれば、則ち道見われず。我且に之を直さんとす。吾聞く、夷子は墨者なり。墨の喪を治むるや、薄きを以て其の道と為す。夷子は以て天下を易えんと思う。豈に以て是に非ずと為して貴ばざらんや。然り而して夷子は其の親を葬ること厚し、と。則ち是れ賤しむ所を以て親に事うるなり。」徐子以て夷子に告ぐ。夷子曰く、「儒者の道は、古の人、赤子を保んずるが若しと、此の言は何の謂ぞや。之は則ち以為らく、愛に差等無く、施すこと親由り始む。」徐子以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「夫の夷子は、信に人の其の兄の子を親しむこと、其の鄰の赤子を親しむが若しと為すと以為えるか。彼は取ること有りて爾るなり。赤子、匍匐して將に井に入らんとするは、赤子の罪に非ざるなり。且つ天の物を生ずるや、之をして本を一にせしむ、而るに夷子は本を二にする故なり。蓋し上世は嘗て其の親を葬らざる者有り。其の親死せば、則ち舉げて之を壑に委(すてる)てたり。他日之を過ぐるに、狐狸、之を食らい、蠅蚋姑、之を嘬(くらう)う。其の顙泚たる有り。睨して視ず。夫の泚たるや、人の為に泚たるに非ず。中心より面目に達するなり。蓋し歸り、虆梩(ルイ・リ)を反して之を掩えり。之を掩うこと誠に是ならば、則ち孝子仁人の其の親を掩うこと、亦た必ず道有らん。」徐子以て夷子に告ぐ。夷子憮然として閒を為して曰く、「之に命ぜり。」

<語釈>
○「徐辟」、趙注:徐辟は孟子の弟子なり。○「直」、趙注:直言して之を攻めずんば、則ち儒家の道は見われず。直言して相手の過ちを正すこと。○「若保赤子」、朱注:「若保赤子」は、周書康誥篇の文、此れ儒者の言なり。○「彼有取爾也」、服部宇之吉氏云う、彼の句は外に一種の義を取る所あって然るなり。「爾」は「然」の義に読む、他の意味があるのだという意味。○「夷子二本故」、趙注:天の萬物を生ずるは、各々一本に由りて出づ、今夷子は他人の親を以て己の親と等しくす、是れ本を二と為す。○「蠅蚋姑」、ハエ・ぶよ・けら。○「嘬」、趙注:「嘬」は攅共(群がり集まること)して之を食らう。“くらう”と訓ず。○「顙有泚」、「顙」は額、「泚」(セイ)は汗のにじみ出た貌。○「虆梩」、朱注:「虆」(ルイ)は土籠なり、「梩」(リ)は土轝なり。つちを盛るかごとそれを運ぶもっこ。○「命之」、服部宇之吉氏云う、「命之」は受命というが如し、教えの旨了解したりとなり。

<解説>
この節も前節に続いて他派との論争であり、墨子学派の薄葬にたいして厚葬は人間の情として当然の理であると論破している。趙指に、聖人、情に縁り禮を制し、終わりを奉ず、とある。しかしこの時代、厚葬の風が盛んで社会的弊害も出てきていた。そんな中で薄葬もそれなりの支持を受けていた。
この節の通釈は、前後の意味をより明確にするために、本文にない語句を挿入し、拡大解釈をしている箇所があることをご了承願いたい。