百十四節
孟子は言った。
「あの美人で有名な西施でも、汚物まみれの帽子を頭にかぶっていれば、側を通り過ぎる人は皆鼻をつまんで避けて通るだろう。醜悪な人でも斎戒沐浴して心身を清めれば、天帝の祭りに奉仕することが出来るのである。」
孟子曰、西子蒙不潔、則人皆掩鼻而過之。雖有惡人、齊戒沐浴、則可以祀上帝。
孟子曰く、「西子も不潔を蒙らば、則ち人皆鼻を掩いて之を過ぎん。惡人有りと雖も、齊戒沐浴すれば、則ち以て上帝を祀る可し。」
<語釈>
○「西子蒙不潔」、趙注:西子は古の好女西施なり、蒙不潔とは、不潔を以て巾帽を汙して、其の頭に蒙るなり。○「惡人」、悪い人の意ではない。容貌の醜悪なる人をいう。
百十五節
孟子は言った。
「天下の人々が万物の本性を論ずるときは、すでに事実として存在している事に基づくものであり、事実とはその物の持つ自然の理に從うことを根本とする。とかく智者が疎まれるのは、何事においても穿ち過ぎるからである。智者も禹が水を疎通させたやり方を見習えば、智が疎まれることはない。禹が水を疎通させるやり方は、無理をせずに地勢に従って水を導いたのであった。もし智者も無理やり智を働かせるのではなく、自然の道理に従って智を働かせば、其の智のもたらすものは更に大きなものとなるだろう。天のような高い所、星のように遠い所でも、その事実に基づいて推測すれば、千年先の冬至の日さえ、いながらにして知ることが出来るものである。」
孟子曰、天下之言性也、則故而已矣。故者以利為本。所惡於智者、為其鑿也。如智者若禹之行水也、則無惡於智矣。禹之行水也、行其所無事也。如智者亦行其所無事、則智亦大矣。天之高也、星辰之遠也、苟求其故、千歲之日至、可坐而致也。
孟子曰く、「天下の性を言うや、故に則るのみ。故なる者は、利を以て本と為す。智に惡む所の者は、其の鑿するが為なり。如し智者にして禹の水を行るが若くならば、則ち智に惡むこと無し。禹の水を行るや、其の事無き所に行る。如し智者も亦た其の事無き所に行らば、則ち智も亦た大なり。天の高きや、星辰の遠きや、苟くも其の故を求むれば、千歲の日至も、坐して致す可きなり。」
<語釈>
○「性」、朱注:性とは、人物の得て以て生ずる所の理なり。その物の本性。○「故」、朱注:故は、已然の跡なり。既に存在している出来事。○「利」、朱注:「利」は猶ほ「順」なり。自然の理に順うこと。○「為其鑿也」、趙注:人、智を用いんと欲して、妄りに穿鑿して、物の性に順わず。○「行其所無事」、安井息軒氏云う、地勢に順いて、之を利導するなり。○「日至」、冬至。
<解説>
朱注に、「程子曰く、此の章は、專ら智を為して發するを、愚と謂う、物事の理は自然に非ざるは莫し、順いて之に循えば、則ち大智を為す。若し小智を用いて鑿つに自ら私を以てせば、則ち性を害して、反って不智を為す、と。程子の言、深く此の章の旨を得ると謂う可し。」