百二十七節
弟子の萬章が尋ねた。
「堯が天下を舜に与えたというのは、事実でございますか。」
孟子は答えた。
「いや、事実ではない。天子は天下を人に与えることはできない。」
「それならば、舜が天下を得たのは、誰が与えたのですか。」
「天が与えたのだ。」
「天が与えたと言うことは、天が事細かに舜に命じられたのですか。」
「いやそうではない。天は何も言われない。ただその行いとそれにより生ずる事柄とにより、天意をお示しになるだけだ。」
「その行いとそれにより生ずる事柄とにより、天意をお示しになるとは、どういうことでございますか。」
「天子は然るべき人物を天に推薦することはできるが、天をしてその人物に天下を与えさせるということはできない。諸侯は然るべき人物を天子に推薦することはできるが、天子をしてその人物を諸侯にさせることはできない。大夫は然るべき人物を諸侯に推薦することはできるが、諸侯をしてその人物を大夫にさせることはできない。昔、堯は舜を天に推薦して、天はそれを受けいれたので、更に舜を人民の前に押し出して事に当たらせたら、人民は喜んで受け入れた。だから言うのだ、天は何も言わない、と。その行いとそれにより生ずる事柄とにより、ただ天意をお示しになるだけだ。」
「あえてお尋ねしますが、天に推薦したら天は受け入れ、それを人民の前に押し出したら、人民も喜んで受け入れた、というのは、どういうことでございますか。」
「舜に天地の祭りを行わせたところ、神々はそれを受け入れ、天地の災いが起こらなかった。これが天が受け入れたと言うことなのだ。そして舜に政治を行わせたところ、よく治まり人民は安心して暮らせるようになった。これが人民が受け入れたと言うことなのだ。このように天下は天が与え人民が与えたものなのだ。だから、私は天子は天下を人に与えることはできない、と言ったのだ。舜が堯の摂政として政治を行ったのは二十八年にもなる。これはとうてい人の力だけで出来るものではない。天の意思があったからこそである。堯が崩御して、三年の喪が終わると、舜は堯の子供に遠慮して、南河の南の方へ隠れ住んだ。ところが天下の諸侯たちで天子に朝見する者は、皆堯の子の所へ行かずに、舜のもとへ参朝した。訴訟のある者も堯の子の所へ行かずに、舜の下へ出かけ訴えた。徳を称えて歌う者も、堯の子を称揚せず舜を称揚した。だから天の意思があったというのだ。こうなって初めて舜は都に出かけ、天子の位に附いたのだ。これが堯の宮殿に居座って、堯の子に位を譲るように迫って位に附いたとしたら、それは奪ったのであって、天が与えたものではない。『書経』の泰誓篇に、『天はわが民の目を通して見、わが民の耳を通して聽く。』とあるのは、この事を言ったものである。民意のあるところに天意があるのだ。」
萬章曰、堯以天下與舜、有諸。孟子曰、否。天子不能以天下與人。然則舜有天下也、孰與之。曰、天與之。天與之者、諄諄然命之乎。曰、否。天不言。以行與事示之而已矣。曰、以行與事示之者如之何。曰、天子能薦人於天、不能使天與之天下。諸侯能薦人於天子、不能使天子與之諸侯。大夫能薦人於諸侯、不能使諸侯與之大夫。昔者堯薦舜於天而天受之。暴之於民而民受之。故曰、天不言。以行與事示之而已矣。曰、敢問薦之於天而天受之、暴之於民而民受之、如何。曰、使之主祭而百神享之。是天受之。使之主事而事治、百姓安之。是民受之也。天與之、人與之。故曰、天子不能以天下與人。舜相堯二十有八載。之所能為也。天也。堯崩、三年之喪畢、舜避堯之子於南河之南。天下諸侯朝覲者、不之堯之子而之舜。訟獄者、不之堯之子而之舜。謳歌者、不謳歌堯之子而謳歌舜。故曰、天也。夫然後之中國、踐天子位焉。而居堯之宮、逼堯之子、是篡也。非天與也。泰誓曰、天視自我民視,天聽自我民聽。此之謂也。
萬章曰く、「堯は天下を以て舜に與う、と、諸れ有りや。」孟子曰く、「否。天子は天下を以て人に與うること能わず。」「然らば則ち舜の天下を有つや、孰か之を與えたる。」曰く、「天、之を與う。」「天の之を與うるは、諄(ジュン)諄然として之を命ずるか。」曰く、「否。天言わず。行いと事とを以て、之を示すのみ。」曰く、「行いと事とを以て、之を示すとは、之を如何。」曰く、「天子は能く人を天に薦むれども、天をして之に天下を與えしむること能わず。諸侯は能く人を天子薦むれども、天子をして之を諸侯を與えしむること能わず。大夫は能く人を諸侯に薦むれども、諸侯をして之に大夫を與えしむること能わず。昔者、堯、舜を天に薦めて、天、之を受く。之を民に暴わして、民之を受く。故に曰く、天、言わず、行いと事とを以て之を示すのみ、と。」曰く、「敢て問う、之を天に薦めて、天之を受け、之を民に暴わして、民之を受くとは、如何。」曰く、「之をして祭を主らしめて、百神之を享く。是れ天之を受くるなり。之をして事を主らしめて、事治まり、百姓之に安んず。是れ民之を受くるなり。天之を與え、人之を與う。故に曰く、天子は天下を以て人に與うること能わず、と。舜は堯に相たること二十有八載。人の能く為す所に非ざるなり。天なり。堯崩じ、三年の喪畢りて、舜、堯の子を南河の南に避く。天下の諸侯の朝覲する者、堯の子に之かずして、舜に之く。訟獄する者、堯の子に之かずして、舜に之く。謳歌する者、堯の子を謳歌せずして、舜を謳歌す。故に曰く、天なり、と。夫れ然る後、中國に之き、天子の位を踐めり。而し堯の宮に居り、堯の子に逼らば、是れ篡うなり。天の與うるに非ざるなり。泰誓に曰く、『天の視るは我が民に自りて視、天の聽くは我が民に自りての聽く。』此を之れ謂うなり。」
<語釈>
○「諄諄然」、よくわかるように教える貌。○「中國」、周の時代になれば、中原を指す言葉になるが、この時代は言葉通り国の中心ということで、都の意。
<解説>
民意のあるところに天意がある。これがこの節の趣旨である。趙岐の章指に云う、「徳、天に合すれば、則ち天爵之に歸し、行い仁に歸せば、則ち天下之を與う。天命常ならず。此を之れ謂うなり。」ここで大事な事は、天命常ならずという言葉である。天命というのは常に変化するもので、それは民意によるのである。故に何事においても天命だから仕方がないとあきらめてはいけない。努力が肝心である。