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『孟子』巻第十二告子章句下 百六州七節、百六十八節

2019-03-14 10:24:09 | 四書解読
百六十七節

孟子は言った。
「春秋時代の五霸と呼ばれている人たちは、古代の三王にとっては罪人である。今の諸侯たちは、五霸にとっては罪人である。今の大夫たちは、今の諸侯にとっては罪人である。天子が諸侯の領地に出かけて視察するのを巡狩と言う。諸侯が天子のもとへ参内して報告するのを述職と言う。天子は諸侯の報告を聞いて、春なら、農具の不足が有れば補ってやり、秋なら、収穫に人手が足りなければ人手を回してやったりした。そして巡狩で諸侯の領地に入ったとき、土地がよく開墾され、田野は手入れが行き届き、国内では年寄りを大切にし賢者を尊び、すぐれた人物がそれに見合った位に就いていれば、恩賞として土地を与えた。だが領地に入ると、土地は荒れており、老人は省みられず、賢者はうち捨てられ、民から過酷な税を取りたてるような者が官職に就いておれば、責めて罰を与える。定期的な述職を一たび怠れば爵位を下げ、二たび怠れば領地を削り、三たび怠れば軍隊を差し向けて追放する。そうであるから天子は罪を責めて討伐することはあるが、利益のために征伐することはしない。それに対して諸侯は互いに利害などにより征伐することはあるが、討伐はない。ところが五人の覇者たちは、天子の命を受けずに諸侯を引き連れて他の諸侯を討伐した。だから私は、五覇の者は古代の三王にとっては罪人である、と言うのだ。五覇の中では齊の桓公が最も勢いが盛んであった。桓公が主催した葵丘の会盟では、犠牲は束ねて縛り、其の上に誓約書を載せただけで、犠牲を殺して血を啜ることをせずに、一同は誓約を交わした。その誓約書は、第一条、『不孝者は誅し、一度定めた嗣子は変更せず、妾を本妻とせぬこと。』第二条、『賢者を尊び、才能のある人物を育て、有徳者を顕彰すること。』第三条、『年寄りを敬い、幼い者を慈しみ、賓客や旅人をおろそかにするな。』第四条、『官職は世襲させず、官職を兼任させず、採用する時は必ず適材を選び、むやみに大夫を殺さないこと。』第五条、『私利を図って堤防を曲げて作らず、他国が凶作で米を輸入するのを妨げず、人に土地を与えて領主としたときは、必ず盟主に報告すること。』というものであった。そして最後に、『我ら同盟の者は、ここに誓い合ったのだから、これからは互いに友好を保っていこう。』と約束した。ところが今の諸侯たちは皆この五か条の誓約を犯している。だから私は、今の諸侯は五人の覇者にとっては罪人である、と言うのだ。主君の惡を諫めもせず増長させるのは、もちろん罪であるが、その罪はまだ小さいほうで、主君に媚びへつらい、そそのかして悪心を引き出すに至っては、その罪は誠に大である。今の大夫たちは皆主君をそそのかして悪心を引き出している。だから私は、今の大夫は今の諸侯にとっては罪人である、と言うのだ。」

孟子曰、五霸者、三王之罪人也。今之諸侯、五霸之罪人也。今之大夫、今之諸侯之罪人也。天子適諸侯曰巡狩、諸侯朝於天子曰述職。春省耕而補不足、秋省斂而助不給。入其疆、土地辟、田野治、養老尊賢、俊傑在位、則有慶。慶以地。入其疆、土地荒蕪、遺老失賢、掊克在位、則有讓。一不朝、則貶其爵、再不朝、則削其地、三不朝、則六師移之。是故天子討而不伐、諸侯伐而不討。五霸者、摟諸侯以伐諸侯者也。故曰、五霸者、三王之罪人也。五霸、桓公為盛。葵丘之會、諸侯束牲、載書而不歃血。初命曰、誅不孝、無易樹子、無以妾為妻。再命曰、尊賢育才、以彰有德。三命曰、敬老慈幼、無忘賓旅。四命曰、士無世官、官事無攝、取士必得、無專殺大夫。五命曰、無曲防、無遏糴、無有封而不告。曰、凡我同盟之人、既盟之後、言歸于好。今之諸侯、皆犯此五禁。故曰、今之諸侯,五霸之罪人也。長君之惡其罪小。逢君之惡其罪大。今之大夫、皆逢君之惡。故曰、今之大夫、今之諸侯之罪人也。

孟子曰く、「五霸は、三王の罪人なり。今の諸侯は、五霸の罪人なり。今の大夫は、今の諸侯の罪人なり。天子の諸侯に適くを巡狩と曰い、諸侯の天子に朝するを述職と曰う。春は耕やすを省みて足らざるを補い、秋は斂むるを省みて給らざるを助く。其の疆に入るに、土地辟け、田野治まり、老を養い賢を尊び、俊傑位に在れば、則ち慶有り。慶するに地を以てす。其の疆に入るに、土地荒蕪し、老を遺て賢を失い、掊克(ホウ・コク)位に在れば、則ち讓有り。一たび朝せざれば、則ち其の爵を貶(おとす)し、再び朝せざれば、則ち其の地を削り、三たび朝せざれば、則ち六師之を移す。是の故に天子は討じて伐せず、諸侯は伐して討ぜず。五霸者、諸侯を摟(ひく)きて以て諸侯を伐する者なり。故に曰く、五霸は、三王の罪人なり、と。五霸は桓公を盛んなりと為す。葵丘の會に、諸侯、牲を束ね書を載せて、血を歃らず。初命に曰く、『不孝を誅せよ。樹子を易うる無かれ。妾を以て妻と為すこと無かれ。』再命に曰く、『賢を尊び才を育し、以て有徳を彰せ。』三命に曰く、『老を敬い幼を慈しみ、賓旅を忘るること無かれ。』四命に曰く、『士は官を世々にすること無かれ。官事は攝せしむること無かれ。士を取ること必ず得よ。專に大夫を殺すこと無かれ。』五命に曰く、『防を曲ぐること無かれ。糴を遏(とどめる)むること無かれ。封有りて告げざること無かれ。』曰く、『凡そ我が同盟の人、既に盟うの後、言に好に歸せん。』今の諸侯は、皆此の五禁を犯せり。故に曰く、今の諸侯は五霸の罪人なりと。君の惡を長ずるは其の罪小なり。君の惡を逢うるは其の罪大なり。今の大夫は、皆君の惡を逢う。故に曰く、今の大夫は今の諸侯の罪人なりと。」

<語釈>
○「五霸」、春秋の五霸と呼ばれている者で、趙注では、齊の桓公・晉の文公・秦の繆公・宋の襄公・楚の荘王である。これが一般的であるが、荀子は、齊の桓公・晉の文公・楚の荘王・呉の闔閭・越の句践を挙げている。私の考えでは宋の襄公を外して越の句践を入れるのがよいのではと思う。○「三王」、趙注:夏の禹・商の湯・周の文王、是れなり。○「春~、秋~」、この句について、天子が巡狩することによってと解釈するのが普通であるが、私は述職によってではないかと考える。○「慶」、趙注:「慶」は、賞なり。○「荒蕪」、「蕪」も荒れる意、「荒蕪」で土地が荒れていること。○「掊克」、朱注:掊克(ホウ・コク)は、聚斂なり。苛税を取りたてること。○「討・伐」、趙注:「討」は、上、下を討ずるなり、「伐」は、敵國相征伐するなり。「討」は上のものが下の者の罪を責めて討伐することで、「伐」は対等のものが利害などにより征伐すること。○「樹子」、嗣子、後継ぎの子。○「攝」、官を兼ねること。○「無曲防」、朱注:無曲防とは、曲げて堤防を為り、泉を壅ぎ水を激し、以て小利を專らにし、鄰國を病しむを得ず。○「無遏糴」、朱注:無遏糴とは、鄰國凶荒にして、糴を閉ざすを得ず。「糴」(テキ)はかいよね、米を買い入れること。○「逢君之惡」、趙注:「逢」は、「迎」なり、君の惡心未だ發せざるに、臣、諂媚を以て逢迎して、君を導き非を為す。

<解説>
この節の趣旨は、趙岐の章指に、「王道、浸衰し、轉じて罪人を為す、孟子之を傷む、是を以て博く古法を思い、時の君を匡すなり。」とある。それよりこの節の重要な部分は、歴史上有名な齊の桓公が主催した葵丘の会盟で諸侯が誓い合った誓約文の内容が述べられていることだ。その内容に関する史料がほとんどないことから、この節の重要性が増す。

百六十八節

魯では、慎子を将軍に任命して、齊と一戦を交えようとしていた。それを見て孟子は言った。
「民を教え導きもせず戦争に用いるのは、民を不幸にするというものだ。民を不幸にするものは、堯や舜の治世では許されない。一戦交えて、たとい齊に勝って南陽の地を得ることが出来たとしても、戦うのはよくないことだ。」
慎子は顔色を変えて悦ばずに言った。
「そのようなことは、私には分からない事です。」
「でははっきり申し上げよう。天子の領地は千里四方ということになっているが、それくらいなければ、その収入で諸侯を待遇することが出来ないからだ。諸侯の領地は百里四方ということになっているが、それくらいなければ、先祖の廟を守り、定められた祭祀を行うことが出来ないからだ。周公が魯に封ぜられたとき、その領地は百里四方であった。別に与える土地が不足していたのでなく、百里四方に止めたのだ。太公望が齊に封ぜられたときも、領地は百里四方であった。同じく与える土地が不足していたのではなく、百里四方に止めたのだ。ところが今の魯の領地は百里四方の五倍もある。今もし王者が現れたとしたら、魯の領地は削られるだろうか、それとも増やされるだろうか。あなたはどちらだと思う。彼の國から土地を取り上げて、他の國に与えるということは、たといそれが人を殺さず平和的な手段であっても、仁者はしないものだ。まして人を殺して奪い取るなどはもってのほかである。君子が君に仕えるのは、主君を導いて正しい道に進ませ、仁道に志すようにさせることだ。それ以外の事はない。」

魯欲使慎子為將軍。孟子曰、不教民而用之、謂之殃民。殃民者、不容於堯舜之世。一戰勝齊、遂有南陽、然且不可。慎子勃然不悅曰、此則滑釐所不識也。曰、吾明告子。天子之地方千里。不千里、不足以待諸侯。諸侯之地方百里。不百里、不足以守宗廟之典籍。周公之封於魯、為方百里也。地非不足。而儉於百里。太公之封於齊也、亦為方百里也。地非不足也。而儉於百里。今魯方百里者五。子以為有王者作、則魯在所損乎、在所益乎。徒取諸彼以與此、然且仁者不為。況於殺人以求之乎。君子之事君也、務引其君以當道志於仁而已。

魯、慎子をして將軍為らしめんと欲す。孟子曰く、「民を教えずして之を用うるは、之を民を殃すと謂う。民を殃する者は、堯舜の世に容れられず。一たび戰いて齊に勝ち、遂に南陽を有つとも、然も且つ不可なり。」慎子勃然として悅ばずして曰く、「此は則ち滑釐の識らざる所なり。」曰く、「吾、に明らかに子に告げん。天子の地は方千里。千里ならざれば、以て諸侯を待つに足らず。諸侯の地は方百里。百里ならざれば、以て宗廟の典籍を守るに足らず。周公の魯に封ぜらるるや、方百里為り。地足らざるに非ず。而も百里に儉せり。太公の齊に封ぜらるるや、亦た方百里為り。地足らざるに非ず。而も百里に儉せり。今魯は方百里なる者五あり。子以為らく、王者作ること有らば、則ち魯は損する所在るか、益する所在るかと。徒に諸を彼に取りて以て此に與うるすら、然も且つ仁者は為さず。況んや人を殺して以て之を求むるに於てをや。君子の君に事うるや、務めて其の君を引きて、以て道に當り仁に志さしむるのみ。」

<語釈>
○「滑釐」、趙注:滑釐は慎子の名。○「宗廟之典籍」、趙注:典籍は、先祖の常籍法度の文。朱注:宗廟典籍は、祭祝會同の常制なり。両注から、先祖代々から伝わってきた記録。

<解説>
力を否定し仁義を説く平和主義者孟子の侵略主義否定論である。この節だけでなく、多くの節で説かれている平和主義の理論は非常に貴重であるが、この様な考え方が戦国時代の諸侯に受け入れられないのは当然である。