二百三十七節
孟子は言った。「聖人は、百世にわたって師たる人物である。周の伯夷や魯の柳下惠などがそれである。だから今でも伯夷の清廉な人柄を聞けば、貪欲な人も清廉となり、惰弱な男でも志を立てて頑張るようになる。柳下惠の度量の広い人柄を聞けば、薄情な人も敦厚になり、度量の狭い人も寛大になる。百世の昔に有名であった者が、百世の後でもその人柄を聞けば感化されて奮い立たぬ者はいない。聖人でなければ、どうしてこのような事があり得ようか。百世の後の人間でさえこのように感化されるのだから、当時直接に感化を受けた人々は言うまでも無いことだ。」
孟子曰、聖人百世之師也。伯夷柳下惠是也。故聞伯夷之風者、頑夫廉、懦夫有立志。聞柳下惠之風者、薄夫敦、鄙夫寬。奮乎百世之上、百世之下、聞者莫不興起也。非聖人而能若是乎。而況於親炙之者乎。
孟子曰く、「聖人は百世の師なり。伯夷・柳下惠是れなり。故に伯夷の風を聞く者は、頑夫も廉に、懦夫も志を立つる有り。柳下惠の風を聞く者は、薄夫も敦く、鄙夫も寬なり。百世の上に奮い、百世の下、聞く者興起せざるは莫きなり。聖人に非ずんば、能く是の若くならんや。而るを況んや之に親炙する者に於いてをや。」
<語釈>
○「頑夫・懦夫」、趙注:頑は、貪なり、懦は、弱なり。○「鄙夫」、趙注:鄙は、狭なり。度量の狭いこと。○「親炙」、親しくその人に接して感化を受けること。親炙に浴するなどと今でも使われるが、その出典がここである。
<解説>
「聖人は百世の師なり」と述べられているが、聖人に限らず、人は心の師とする人物を持っていることが多い。人として後世にまで心の師とされるのは、誠に尊敬されるべき人物である。百三十二節に伯夷・柳下惠に関する同文があり、参照されたし
二百三十八節
孟子は言った。「仁というものは、人が人たる所以の根本であり、それを行うのは人である。仁とそれを行う人とを合わせて道というのである。」
孟子曰、仁也者、人也。合而言之、道也。
孟子曰く、「仁なる者は、人なり。合せて之を言えば、道なり。」
<解説>
この節は、このままでは理解し難く、昔から脱文があるのではと言われている。程子は云う、「或いは曰く、外國本に、人也の下に、有義也者宜也、禮也者履也、智也者知也、信也者實也の凡そ二十字有り、今按ずるに此の如ければ、則ち理極分明なり、然れども未だ其の是非詳らかならざるなり。」この外国本は朝鮮の高麗で刊行された本らしい。今は一応朱注に従って解釈しておく。朱注:仁なる者は、人の人為る所以の理なり、然り、仁理なり、人物なり、仁の理を以て人の身に合わせて之を言う、乃ち所謂道なる者なり。
二百三十九節
孟子は言った。「孔子が故郷の魯を去るとき、『遅々として進まぬ吾が歩みよ。』と言われた。これは父母の国を去るのだから当然の姿である。齊を去ったときは、米を水に漬けながら、炊飯する暇も惜しんで、米をそのまま持って去るほどに、足早に去って行った。これは他国を去るのだから当然のことである。」
孟子曰、孔子之去魯、曰、遲遲吾行也。去父母國之道也。去齊、接淅而行。去他國之道也。
孟子曰く、「孔子の魯を去るや、曰く、『遲遲として吾行くなり。』父母の國を去るの道なり。齊を去るや、淅を接して行く。他國を去るの道なり。」
<語釈>
○「接淅而行」、服部宇之吉氏云う、「接」は乾かすなり、「淅」は水に漬せる米なり、「接淅」は水に漬せる米の水を去り、乾かし、炊がずして去ると云うことなり、去ること急にして、飯を炊ぐの暇なく。米のままににて持ち去るなり。
<解説>
百三十二節に同様の文章があり、参照されたし。
二百四十節
孟子は言った。「孔子が陳国と蔡國との間で困厄に遭遇したのは、その国の君臣俱に悪人で信頼関係も無く、孔子が交わりを通じるに足るだけの人物がいなかったからである。」
孟子曰、君子之戹於陳蔡之閒、無上下之交也。
孟子曰く、「君子の陳蔡の閒に戹するは、上下の交わり無ければなり。」
<語釈>
○「君子」、趙注:君子は孔子なり。○「戹」、朱注:戹は、厄と同じ。困厄のこと。○「無上下之交」、趙注:其の國の君臣皆惡にして、上下交接する所無し、故に戹するなり。
<解説>
趙岐の章指に云う、「君子固より窮す、窮すとも道を變えず、上下交わり無く、賢に援け無し。」
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