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『孟子』巻第七離婁章句上 八十七節、八十八節、八十九節

2018-01-19 15:01:01 | 四書解読
八十七節

孟子は言った。
「不孝には三つあるが、中でも一番大きな不孝は後継ぎがなく家を絶やすことである。舜が親に告げずに妻を娶ったのは、礼には外れているが、家を絶やすことを恐れた為であったので、後世の識者はその舜の行為を、同意を得たも同じだと見なしたのである。」

孟子曰、不孝有三。無後為大。舜不告而娶、為無後也。君子以為猶告也。

孟子曰く、「不孝に三有り。後無きを大なりと為す。舜の告げずして娶るは、後無きが為なり。君子以て猶ほ告ぐるがごとしと為す。」

<解説>
三つの不幸について、趙注に云う、禮に於いて不孝なる者は三事有り、意に阿り曲げて從い、親を不義に陥らす、一の不孝と謂う、家貧しく親老うるに、禄仕せず、二の不孝と謂う、娶らず子無く、先祖の祀りを絶つ、三の不孝と謂う。後無きとは、後継者がいないということであるが、その本意は家を絶やすことである。

八十八節

孟子は言った。
「仁の具体的な内容は、親に仕えること、乃ち孝であり、義の内容は兄に従うこと、乃ち悌である。知の内容は、この孝と悌との大切さをよく知って、この道から離れないことだ。礼の内容は、孝悌の道を行うに際して、節度を守り、それを美しく整える事で、音楽の内容は、この道を楽しむことにある。そのような音楽を楽しんでいれば、自ずから孝悌を大切にする心が生じてくる。このように楽しいという気持ちから生まれた孝悌を大切にする心は、一たび生まれるとどうして止めることができようか。止めることが出来ないというのは、音楽を聞いて知らず知らずのうちに手は舞い足は拍子をとるのと同じように、自然な気持ちで孝悌の道を行うことが出来るということだ。

孟子曰、仁之實、事親是也。義之實、從兄是也。智之實、知斯二者弗去是也。禮之實、節文斯二者是也。樂之實、樂斯二者。樂則生矣。生則惡可已也。惡可已、則不知足之蹈之、手之舞之。

孟子曰く、「仁の實は、親に事うること是れなり。義の實は、兄に從うこと是れなり。智の實は、斯の二者を知りて去らざること是れなり。禮の實は、斯の二者を節文すること是れなり。樂の實は、斯の二者を樂しむ。樂しめば則ち生ず。生ずれば則ち惡んぞ已む可けんや。惡んぞ已む可けんやとならば、則ち足の之を蹈み、手の之を舞うを知らず。」

<語釈>
○「實」、趙注:事には皆實有り。物事の具体的な内容を意味する。○「不知足之蹈之、手之舞之」、趙注:其の心の歓喜するは、音楽を聽く者は、手舞い足蹈み、曲節に應じ、而も自ら知らざるが若きなり。

<解説>
趙岐の章指に云う、「仁義の本は孝悌に在り、孝悌の至りは神明に通ず、況や歌舞の自ら知ること能わざるをや、蓋し諸を中に有し、諸を外に形わす。

八十九節

孟子は言った。
「天下の民が心から喜んで自分に帰服するのを、雑草やごみを視るかのように、気にもせず喜びもしなかったのは、ただ舜だけである。それというのも、親に受け入れられないようでは、一人前の人間と言えないし、親に喜んで従われるようでなければ、子とは言えないと思ったからである。だから舜は心を尽くして親に仕えたので、さすがに頑固な父親の瞽瞍も心を許し、満足して喜ぶようになった。瞽瞍が喜んで満足するようになると、天下の父子も皆感化されたのである。このように父親の瞽瞍が喜びを致して、天下の父子の道が定まった。これこそが大孝と謂うものである。」

孟子曰、天下大悅而將歸己。視天下悅而歸己、猶草芥也、惟舜為然。不得乎親、不可以為人。不順乎親、不可以為子。舜盡事親之道而瞽瞍厎豫。瞽瞍厎豫而天下化。瞽瞍厎豫而天下之為父子者定。此之謂大孝。

孟子曰く、「天下大いに悅びて將に己に歸せんとす。天下悅びて己に歸するを視ること、猶ほ草芥のごときは、惟だ舜をのみ然りと為す。親に得られずんば、以て人と為す可からず。親に順われずんば、以て子と為す可からず。舜、親に事うるの道を盡くして、瞽瞍、豫びを底せり。瞽瞍、豫びを底して天下化せり。瞽瞍、豫びを底して、天下の父子為る者定まれり。此を之れ大孝と謂う。」

<語釈>
○「瞽瞍」、舜の父親、舜を虐待したことで知られている。○「厎豫」、「厎」は「致」なり、「豫」は「樂」なり。

<解説>
孟子の思想の根本は仁義にあり、仁については、前節で、「仁の實は、親に事うること是れなり。」と述べられている。それをこの節では、舜を例にして、親に仕えること、乃ち孝の道を尽くし、それを天下に感化することにより、天下が治まることを説いている。仁義の道は、人道であるだけでなく、国家治平の道でもある。これが孟子の言いたい事であろう。

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