二百四十五節
齊が飢饉であった。以前も飢饉の歳に、孟子は齊王に勧めて棠邑の米蔵を開いて、民に配給させたことが有ったので、弟子の陳臻は言った。「齊国の人は皆、先生がもう一度王に勧めて、棠邑の米蔵を開くようにしてくださるのではと思っています。それはもう出来ないことでございますか。」
孟子は言った。
「それは馮婦と同じことをするようなものだ。晉の人で馮婦という者がいた。彼は粗暴で虎を生け捕りにすることができるほどであったが、後には善良の士になった。あるとき、郊外に出かけると、人々が虎を追っており、虎は山の隈を背にして身構えたので、近寄って捕らえようとする者はいなかった。そこへ馮婦が遠くからやってくるのを見て、人々は走り寄って迎えた。馮婦は腕まくりをして車から降り、虎に向かって行った。人々はそれを見て悦び喝采したが、心ある士は無謀な昔の性格が出たことに苦笑した。私もそのような時をわきまえぬ無謀な行為の真似をする気持ちはない。」
齊饑。陳臻曰、國人皆以夫子將復為發棠。殆不可復。孟子曰、是為馮婦也。晉人有馮婦者。善搏虎。卒為善士。則之野。有衆逐虎。虎負嵎。莫之敢攖。望見馮婦、趨而迎之。馮婦攘臂下車。衆皆悅之、其為士者笑之。
齊饑う。陳臻曰く、「國人皆以えらく、夫子將に復た棠を發くことを為さんとす、と。殆ど復びす可からざるか。」孟子曰く、「是れ馮婦を為すなり。晉人に馮婦という者有り。善く虎を搏つ。卒に善士と為る。則ち野に之く。衆虎を逐う有り。虎、嵎を負う。之に敢て攖(せまる)る莫し。馮婦を望見し、趨りて之を迎う。馮婦、臂を攘(はらう)いて車を下る。衆皆之を悅びしも、其の士為る者は之を笑えり。」
<語釈>
○「齊饑。陳臻曰」、趙注:孟子嘗て王に勧めて、棠邑の倉を發き、以て貧窮を振わし、時の人之を頼る、今、齊人復た饑え、陳臻言う、一國の人皆以為えらく、夫子復た棠を發けし時の若く、王に勧む、と。○「搏」、朱注:手にて執るを搏(うつ)と曰う。生け捕りにすること。○「虎負嵎」、「嵎」は、山の隈、負うは、背にすること。○「攖」、趙注:「攖」は、迫るなり。○「攘臂」、腕まくりをすること。
<解説>
この節の趣旨は、「是れ馮婦を為すなり」にあるのだろうが、少しく理解し難い。物事は時により変化するものであり、それに応じた行いをすることを説いたのであろう。
二百四十六節
孟子は言った。
「口がうまい味を求め、目が美しい色を求め、耳が美しい音色を求め、鼻がよい香りを求め、手足が安逸を求めるのは、人間の本性である。しかし、それらが得られるかどうかは天命であって、誰でも得られるものではない。だから君子はそれらを性とはみなさずに強いて求めようとしないのだ。父子にとっての仁、君臣にとっての義、客と主人とにとっての礼、賢者にとっての智、聖人にとっての天道、これらは天命であるので、現実にどの程度行われるかどうかは分からない。しかしこれらは天命であると同時に、善は善とし惡は惡とする人間の本性が根底にある。だから君子はこれらを運命とみなして諦めるのででなく、努力するのである。」
孟子曰、口之於味也、目之於色也、耳之於聲也、鼻之於臭也、四肢之於安佚也、性也。有命焉、君子不謂性也。仁之於父子也、義之於君臣也、禮之於賓主也、智之於賢者也、聖人之於天道也、命也。有性焉、君子不謂命也。
孟子曰く、「口の味に於けるや、目の色に於けるや、耳の聲に於けるや、鼻の臭に於けるや、四肢の安佚に於けるや、性なり。命有り、君子は性と謂わざるなり。仁の父子に於けるや、義の君臣に於けるや、禮の賓主に於けるや、智の賢者に於けるや、聖人の天道に於けるや、命なり。性有り、君子は命と謂わざるなり。」
<解説>
この節の趣旨について服部宇之吉氏がうまくまとめているので、それを紹介しておく、「五官の欲は皆天性なり、されど世上の物皆己が願うままに享け得るべきに非ず、故に君子はその天命ある事を知って、強いて求むることを為さざるなり。人の性質に清濁厚薄あるは、固より天に命ざれるるものにして、聖凡同一なること能わず、されど其善を善とし、惡を惡とする点に就いて、萬人皆相同じき所有るは、是れ即ち其本性の萬人皆同一なるに由る、故に君子は之を天命なりと言わずして、吾身を修むることを怠らざるなり。」
二百四十七節
齊人の浩生不害が孟子に尋ねて言った。「樂正子はどんな人物ですか。」
孟子は言った。
「善人であり、信に厚い人だ。」
「何を善と言い、何を信と言うのですか。」
「誰もが望ましいと思うものが善であり、それを身につけ懐き続けるのが信である。この善と信とを己に充実させているのを美であると言い、光り輝くほどに充実させているのを大と言い、大にしてよく天下を化するのを聖と言い、聖にしてその偉大な働きを計り知ることが出来ないのを神と言う。この善・信・美・大・聖・神の六段階のうち、樂正子は善と信との二者の中にあるが、他の四者には達しておらず、その下に在る者である。」
浩生不害問曰、樂正子何人也。孟子曰、善人也、信人也。何謂善、何謂信。曰、可欲之謂善、有諸己之謂信。充實之謂美、充實而有光輝之謂大。大而化之之謂聖、聖而不可知之之謂神。樂正子二之中、四之下也。
浩生不害問いて曰く、「樂正子は何人ぞや。」孟子曰く、「善人なり、信人なり。」「何をか善と謂い、何をか信と謂う。」曰く、「欲す可きを之れ善と謂い、諸を己に有するを之れ信と謂う。充實せるを之れ美と謂い、充實して光輝有るを之れ大と謂う。大にして之を化するを之れ聖と謂い、聖にして之を知る可からざるを之れ神と謂う。樂正子は二の中、四の下なり。」
<語釈>
○「浩生不害」、趙注:浩生は姓、不害は名、齊人なり。○「可欲之謂善」、朱注:天下の理なり、其の善なる者は、必ず欲す可く、其の惡なる者は、必ず惡む可し、其の人と為りや、欲す可くして惡む可らざれば、則ち善人と謂う可し。○「有諸己之謂信」、朱注:善を身に誠にするを之れ信と謂う。○「美」、立派、秀でているなどの意。○「二之中、四之下」、趙注:人は是の六等有り、樂正子は善・信にして、二者の中、四者の下に在るなり。
<解説>
人物を評価するのに、孟子は六段階を以て述べている。非常に分かりやすい区分であるが、最初の、「欲す可きを之れ善と謂う」は多少問題がある内容に思える。孟子は性善説の立場に立っているから言えることであり、これを、「欲す可きを之れ惡と謂う」とすれば荀子の性悪説になる。人間の本性はどちらであるかは、永遠に決着のつかない問題であろう。
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