![]() | 江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた サムライと庶民365日の真実 (講談社プラスアルファ新書)古川 愛哲講談社このアイテムの詳細を見る |
2008年1月20日第一刷 2008年3月14日第五刷
著者は古川愛哲。1949年神奈川県生まれ。日大芸術学部映画学科で映画理論を専攻。卒業は?放送作家を経て雑学家に。万年書生と称して、人間とは何かを追求。国際学生映画祭の創設に加わり、新しい芸術をバックアップ・・・。
本のカバーに著者の顔写真が載っているのだが、「もののけ姫」に出てくる「ジコ坊」に口髭と顎髭をはやしたような顔で非常に胡散臭い(笑)。著者の略歴もあわせて、私はこの様な人の言うことは信用しないことにしている(笑)。
本の題名であるが、大正時代にチャンバラ映画が作られた。それが現代の我々が持つ江戸時代のイメージの元になっているのでは・・・という話から付いている。
明治期以降、我々現代日本人のご先祖様たちは、急激に日本という国を作り変えてしまった。以前にも別の本の受け売りで書いたことがあるが、明治以降の日本とそれ以前の日本は別物で、明治期以降は日本人の感覚までも西欧化させてしまった。また日本語の文章の文体も早い段階で全く江戸時代とは異なったものを完成させてしまった。江戸時代の日本の風景や風俗を西洋人の目を通して書かれた文献の方が、江戸時代に日本人自身によって書かれた文献より、現代日本人が読み易く納得できるのは、その証左ということを書いたが、だからかこの本に書かれている江戸時代の日本人の姿には、なかなか慣れないものがある。
例えばこの本に書いてある女性の扱われ方の話などは、ちょっと閉口気味になる。借金の形に女房を売るなんてことは広く承知されているかと思うが、友人からの借金を棒引きするために貸すこともあったり・・・生まれてきた子供の親が誰か分からないときには、身に覚えのある連中が皆で養育したとか・・・こういう話を書けば「人権無視」「なんて悲惨」という言葉が聞こえてきそうだが、女性の方も承知で、たいしたことでもないという考えだったし、周りもそういうものだと思っていたのだろう。
当時の地方では夜這いがあり通い婚がありで、女性は共同体で共有するものという性格もあったから、それらの出身者で作る「江戸」という町もまあ似たようなものなのである。でも女性はとても元気で虐げられているように見えるばかりでもない。三行半は男性からの離縁状ではあるが、それがないと他に嫁にいけないから女性から男性に要求すするものだし、未婚既婚にかかわらず女性の無断外泊は日常茶飯事。男性も家族も気に留めない。女性が夫の後を三歩下がって歩くなんてことは決してない。
平岩弓枝の「御宿かわせみ」を最近ずっと読み続けているのだが、洗練した江戸時代の人物像がキラキラと輝くように活写してあって、読んでいてとても小気味良い。しかし、さらっと書かれているエピソードはとても残酷で悲しい話が多い。事件といえば殺人。子供は誘拐され売られるし、女は娼婦に身を落とす。親と子はしょっちゅう行き別れるし、女房は逃げる。川に浮かぶ湯舟は男女混浴、それを利用する下町の人々は夏ともなれば男性は下帯だけ、女性は湯文字だけ。平岩弓枝が現代とかなり異なる江戸時代の風俗を知らないわけも無く、知っていながら現代日本人に美しく読める江戸時代を見せてくれているのは、彼女一流の筆力なのだ。
この本に書かれていることは新発見でもないし、ことさら「ねじ曲げられた」などと、おおぎょうな題名を付けることでもない。ま、そうとでも題名を付けないと・・・というのは理解するし、そんなことを、お前も知ったらしく書くなと言われることもしっかり私は受け止めよう(笑)。
なお、この本の内容はメモである。巻末の参考文献から拾ってきたメモをつなげたもの。それも主要参考文献となっているから、出展不明のメモだと思ったほうが良い。まるで私のブログのような・・・。
(2008年11月神戸市西図書館)
以下、メモより。
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◆P22 御目付 江戸は中央通行
御目付は道の真ん中を真っすぐ歩くだけでなく、曲がり角になると直角に曲がる
◆P25 法令で一つの町には一軒の髪結い床がおかれている
髪結いは町内が費用を出す公務員。町内の人物の監視役。町内の重要な行事、結婚などの「ひろめ」には参加する。月代に髪が伸びた男子は、髪結いの証人がいないと無宿者として町奉行所の手で捕縛される恐れがあった。旅行者も旅行手形を提出しなければ旅先で髪結いを利用できなかった。髪結いは町奉行所に火災があった場合は駆付けて書類を持ち出す義務があった。非常通行手証である木札と提灯が与えられていた。
◆P46 町年寄 三家任命
奈良屋、樽屋、喜多村家
奈良屋が筆頭。奈良出身。本姓は小笠原。天正十年(1582)本能寺の変で家康の伊賀越えの功労者(小笠原小太郎)。
樽屋は三河以来の旗本が出。水野弥吉。家康から樽三四郎の名を賜った。
喜多村家は初代は文吾郎。家康とともに江戸に入国。御馬御飼料御用と関八州連雀商札座、長崎糸割符年寄を兼ねた。
町年寄が町奉行の下で行政を行った。町年寄は正月三日には無官の大名とともに江戸城で将軍にお目見えした。帝鑑の間の敷居外に詰めた。帝鑑の間は譜代大名の席。大阪惣年寄、堺町年寄、京年寄、五ヶ所糸割符年寄、他の主要な都市の町年寄もお目見えするが、江戸町年寄の方が格が上。外様大名より地位が高いともいえる。収入もそれなりにあった。
◆P48 町名主 町年寄の下
筆頭は日本橋大伝馬町の馬込勘解由。名主は享保七年(1722)、264人。他に新吉原に4人。
名主は玄関を構えることを許された。町年寄から名主までが正式な町人。町人以外には税負担はない。
大家=家守=家主=差配人(管理人)は町政の事務方でもある。
町年寄から大家までが町役人。
大家の制服は半纏姿。裾に町の印を染める。ヨレヨレの袴をはく。袴が新品だと周りからバカにされた。
◆P87 御成先御用の提灯の力
将軍は町を移動する際、勝手気ままに家を選んで休む。休んだ先は「御成先御用」の家となり、少々のお金と「御成先御用」と書かれた提灯を賜った。その提灯は普段は何の効力も発揮しないが、いざ火事が起こった時、その提灯を高々と掲げると、与力・同心・火消しが集まり優先的に火を払った。
◆P120 浅草車善七 品川松右衛門
この二人は非人頭。捕り方を動員した。捕り物で大八車や梯子で犯人を囲むのは非人の仕事。
◆P123 同心の手下の費用
町奉行所から支払う。その費用は吉原から「ちり紙代」と称して献金された。年千両以上。これは・・・というか似たようなことは明治二十年代まで続く。東京警視庁の捜査費用は私娼の密売春を摘発した時の罰金を当てていた。
◆P134 秘事作法
江戸初期の承応期(1652-55)
岡山池田候の奥御殿に仕えていた元御中臈であった秀麗尼が書き残した御嫡子に対する性教育書「秘事作法」を残した。御幼少の頃から順次始められる。本来は外部に漏らしてはならないこと。今のところこれしか残っていない。(渡辺信一郎)
◆P165 御家人の内職
下谷御徒町 :朝顔
大久保百人町 伊賀百人組:植木
弁天町 根来百人組 :提灯
黄河百人組 :春慶塗
青山の御家人 :傘張
代々木・千駄ヶ谷の御家人:季節の虫
四谷鮫ヶ橋 :凧張・小鳥
◆P176
寛文元年(1661)
南信濃の山村で殺人事件
老女が容疑者として飯田の城下へ移送され二十日間余り取調べを受けた
無実として釈放されたが、入牢中の衣食住は老女にとって生涯忘れられない贅沢として感じられ、後々までも語り草にした。
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