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日本帝国の申し子「高敞の金一族と朝鮮資本主義の植民地起源 1876-1945」 ー カーター・J・エッカート(草思社)

ハーバード大学教授(朝鮮史)の、朝鮮の近代は日本統治に始まるということを表した本。

カーター・J・エッカート 「日本帝国の申し子」 草思社

副題「高敞の金一族と朝鮮資本主義の植民地起源 1876-1945」

訳)小谷まさ代

著者はハーバード大学教授(朝鮮史)、ハーバード大学コリア・インスティチュート所長。


『日本帝国の申し子 ――高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945』

草思社

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著者はこの本は「日本の植民地支配に対する弁明ではない」「韓国資本主義の発展に関する研究書である」とわざわざ書いている。Amazon.co.jpのレビューでは『アメリカ人研究者が「その現象の歴史的背景」を、一切の予断と偏見を排して解明した「韓国社会経済史」である』とあったが、予断と偏見を排し客観的であればあるほど著者が「日本の植民地支配に対する弁明ではない」とでも書かないと読者に勘違いされるかもしれないと案ずるほど朝鮮には手厳しい内容になる。

日本の統治政策についての粗探しは何も無い。労働争議に関する箇所で警察の介入について記してあるのだが、それさへ日本を誉めてあり面はゆい感じがする(下記のメモ p284 参照)。日本の統治政策について細かい粗探しをすれば出てくるのだろうが、しかしそれに拘っていれば大きなことを見逃してしまう。



韓国では資本主義の「萌芽」を李朝時代に求めるという考え方が大勢を占める。アメリカにも日本にもこれを支持する学者がいる。

李泰鎮教授「植民地期は祝福どころか近代化を阻害」 --- 韓国 中央日報(日本語版)

上記の中央日報の記事ではいきなり大韓帝国の名前が出てきて、すっかり朝鮮時代には近代化の準備が整っていたとでも言いたげだが、探そうにも探せないというのが現実で、あえて触れないようにしているのじゃないかと思う。

著者はこれに関して「朝鮮が独自の産業革命が起こっていたかどうかを証明する方法などありえない。オレンジの果樹園でリンゴを探すのに似たもの。起こったかもしれないなどという仮定のはなしには答えは決してみつからない」と明確に言い切り、韓国人が李氏朝鮮時代に拘るのは「偏狭なナショナリズム」から来るものであるとし、探すこと自体を学問的に無意味とする。

そして今現在でも朝鮮人資本の大企業として韓国で認められている京城紡織株式会社に着目し、高敞の金一族が日本の統治下で日本の制度のもとで日本の技術を学びながら、初期には日本を後期には日本が権益を拡大していく地を市場として京城紡織株式会社を発展させていく過程を書くことによって、朝鮮の前近代的で疲弊した社会が活力のある近代へ移行していった姿を鮮やかに見せてくれる。



朝鮮戦争後の疲弊した韓国は朴正熙大統領のもとで日本の資金を使いながら工業国家へ移っていくのだが、そのやり方は日本の統治政策をそのままコピーしたもので、日本統治下で推進された工業化は戦後は経済発展のモデルになった。

それについて朝鮮史の研究者であり日本統治時代を詳細に調べ上げた著者は(p334)「急激な工業化を推進した朴正熙政権時代の20年間の変容を見れば、植民地研究者はまるでデジャビュのような不思議な感覚に襲われる。歴史はやはり圧倒的な勝利を収めた。つまり過去は現在のなかに能動的に作用して生きているのである」と書いている。



2005年4月、盧大統領の現在の韓国が100年前の朝鮮の外交政策を繰り返しをしているように見える今、「過去は現在のなかに能動的に作用して生きているのである」という言葉は皮肉でもある。



以下、メモ

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◆(p213より)

1946年の夏、米国賠償委員会の参謀で経済学者のエドウィン.M.マーティンは、朝鮮と満州におけるかつての日本の産業資産を調査していた。6月13日奉天の近くでマーティンは焼け焦げた残骸に足をとられながら歩いていた。そこはほんの10ヶ月前まで紡錘3万5000錘、織機1000台、従業員3000名を誇る真新しい大紡績工場だった。中国当局の報告では、ソ連軍が4万5000ドル相当の原綿を奪ったあと火をつけたという。

まだその場に残っていた朝鮮人の警備員から、その工場が日本や満州国の資本ではなく朝鮮資本において建設されたと聞いたマーティンは驚き、報告書に「そのような事実は確認できなかった」と書いている。日本帝国主義の犠牲者である朝鮮人が辺境の地満州で、何百万ドルもの資産価値を持つ紡績工場を建てていたことをマーティンが不思議に思ったのも無理はない。


◆p284 1931年 ストライキ

 ( 京紡の悪条件に対しての労働争議 
    確かに法的な条件は日本国内より見劣りはする・・・ )

 以下、著者が書いてあることを丸写し。

 警察はストライキが急進派とは無関係であることを確かめると、監視することにとどめて手出しを控えた。会社(京紡)と労働者の双方に譲歩を求め、仲介を試みることさへあった。

 警察は最低賃金アップと解雇された従業員の再雇用を会社側に認めさせた。

 1938年制定され1941年改正された国家総動員法で日本、朝鮮とも経済統制を行えるようになった。「労働争議の予防もしくは解決に関し、必要な命令をなし、または作業所の閉鎖、作業もしくは労働のの中止その他の労働争議に関する行為の制限もしくは禁止をなす」権限を総督府に与えている(国家総動員法第7条)

 1938年以降、労働争議を未然に防ぐことも警察(日本)の役目になる。「見事に役目を果たした。」日本の警察がいかに優秀だったかを示す証拠である。

 植民地時代末期、京紡が「非常にスムーズ」に仕事ができたのは、警察の統制のおかげであって、労働条件が改善されたからではない。

 これは1945年8月にはっきりと証明された。

 解放によって警察が統制力を失うと、京紡の一四〇〇人の労働者たちはただちに組織を結成し、改革を求める嘆願書を会社に提出した。そして8月の終わりには京紡26年の歴史の中で最も長く激しいストライキが始まった。

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