東京でカラヴァッジョ 日記

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クリムト《リア・ムンクの肖像》を巡る物語

2019年05月08日 | 展覧会(西洋美術)
クリムト展 
ウィーンと日本 1900
2019年4月23日~7月10日
東京都美術館
 
 
クリムト展  第8章「生命の円環」出品作
クリムト
《リア・ムンクI》
1912年、個人蔵
   死者の青白い顔色と生気に満ちたバラの花びらが対比をなし、女性がまるで眠っているかのように美しく描かれている。(会場解説より)
 
 
 
序   たばこと塩の博物館にて
 
   2019年1月、たばこと塩の博物館にて開催の「ウィーン万国博覧会」展、会期終了間際に滑り込み訪問。
 
   事前調べ無しで訪問した私、クリムトの素描2点の展示に驚く。完全なサービス出品ですね。1862年生のクリムトと1873年開催のウィーン万国博覧会とは直接の関係はないはずですものね。
 
   素描2点のうち1点。
 
クリムト
《キモノを着た女(油彩画「リア・ムンクの肖像III」のための習作)》
1917-18年、個人蔵
 
 
   本素描の展示室内解説は、完成油彩画について言及している。
 「第二次世界大戦後はリンツ市が所蔵していたが、2009年に発注者の遺族たちに返還され、翌年売却された」。
   ネット検索する。そして、クリムト「リア・ムンクの肖像」を巡る物語を知る。
 
 
   以下、現時点での私の理解を記載する。
 
 
 
1   肖像画のモデルについて
 
   マリア(愛称リア)・ムンクは、1887年、ポーランドの実業家である父アレクサンダーとピュリッツァー家出身の母アランカの次女として生まれる。母アランカは、ジョーゼフ・ピュリッツァー(ピュリッツァー賞はその名に因んで創設された)の姪にあたる。
   1911年、リアは、ドイツの詩人作家から婚約破棄されたことを苦に、死を選ぶ。12月28日、ピストルで自らの胸を撃つ。24歳であった。
 
 
 
2   《リア・ムンクの肖像I》
 
   悲嘆にくれる母アランカは、クリムトに亡き娘の肖像画制作を依頼する。
   アランカの妹夫婦は、クリムトの重要なパトロンの一人であり、クリムトは、1899年に妹の肖像画を、1916年にその娘の肖像画を制作している。妹の仲介により売れっ子画家クリムトが注文を受けることとなったのだろう。
   1912年、作品が完成する。死の床にあるリアである。
 
クリムト
《リア・ムンクの肖像I》
1912年
 
   私としては今回(2019年のクリムト展)が初見。2012-13年に名古屋・長崎・宇都宮で開催された「クリムト  黄金の騎士をめぐる物語」展でも来日。当時も現在も所蔵者は、個人蔵(courtesy of Richard Nagy Ltd.,London)となっている。
 
 
 
3   《リア・ムンクの肖像II》
 
   しかし、母アランカは、ベットに横たわる娘の肖像には耐えられなかったらしい。再度、クリムトにリアの肖像画制作を依頼する。今度は、全身像の生きている姿のリアである。
   1913年、作品が完成する。が、母アランカは受け取りを拒否する。
 
クリムト
《リア・ムンクの肖像II》
1913年
 
   両胸を見せるエロティックな姿の女性。
   こんな作品、母親に受け取り拒否されるのは当然だろう。クリムトは一体何を考えていたのか。というのは早合点。
   本作の今の姿は、受け取り拒否された作品を別のモデルを使って補筆・描き直ししたものである。そのモデルはダンサーであったので、本作は「踊り子」との別名を持つ。クリムトのアトリエにずっと置かれ、クリムトの死後に初公開されている。
   母アランカは、クリムトの第二作のどこが受け入れられなかったのか。作品の最初の姿が分からない今となっては永遠の謎である。
 
   本作の現所蔵者について、今回2019年のクリムト展にあわせて多数刊行されているクリムト画集を確認してみたが、個人蔵との記載のみである。
 
 
 
4   《リア・ムンクの肖像III》
 
クリムト
《リア・ムンクの肖像III》
1918年
 
   夫妻は三たびクリムトに娘の肖像画の制作を依頼する。第二作の受け取り拒否から時間が経過しているようなので、夫妻も画家も双方それぞれ思案したうえでの注文成立であったかもしれない。
 
   しかしながら、本作はクリムトの死により未完に終わる。
   本作を見ると、女性の頭部はほぼ仕上がっており、装飾的な背景も相応に進んでいるが、衣装はほぼ未着手の状態である。クリムトの制作の進め方が伺えて興味深い。
 
   未完で終わった作品は、母アランカに引き渡される。そしてアランカは、その作品をずっと手元に置いていた。1941年まで。
 
   ナチスである。
   1941年、ナチスはユダヤ系であったアランカから本作を奪う。奪ったのは本作にとどまらない。アランカの命も奪う。1941年、ポーランドの収容所に送られ、命を落としたのだ。78歳であった。また、彼女の三女の命も奪う。ポーランドの収容所に送られた三女は1942年に命を落とす。
 
   戦後、美術品コレクター兼ディーラーのウォルフガング・グルリットが本作を取得する。
   「グルリット」という苗字。ミュンヘンで発見されスイス・ベルン美術館に遺贈された“ナチス掠奪絵画”の所有者コーネリウス・グルリットと同じである。コーネリウスの父親とウォルフガングはいとこ同士であったようだ。
 
   1953年、ウォルフガング・グルリットは本作をオーストリア・リンツ市に売却する。リンツ市立ノイエ・ギャラリーに展示され、2003年から新設のレントス美術館に展示される。レントスはリンツの古い名称であるらしい。
 
   2009年、リンツ市は本作をヨーロッパとアメリカに住むアランカの子孫たちに返還する。翌2010年6月、ロンドンのクリスティーズの競売にかけられる。1880万ポンド。
   現所蔵者について、今回2019年のクリムト展にあわせて多数刊行されているクリムト画集を確認すると、本作を掲載しているのは2冊のみ。うち1冊は「レントス美術館、リンツ」と古い情報。もう1冊には「ルイス・コレクション」との記載。
 
 
   
   近代の画家としては作品数が少ないと言われるクリムト。
   加えて1933〜45年の間の来歴が怪しげな作品も多いとなれば、クリムト回顧展の開催は困難な事業だと思う。
 
 
【当初掲載2019/1/11、更新2019/5】


2 コメント

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Unknown (川島美彦)
2019-07-05 01:16:47
クリムト展ウィーンと日本1900で初めて見ました。叫びのムンクと関係があるのか、またなぜⅠが付いているのか疑問でした。解説でよくわかりました。どうももありがとうございます。
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クリムト展 ()
2019-07-07 19:26:53
川島美彦 様

コメントありがとうございます。
少しでもお役に立てたようなら、嬉しく思います。
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