森洋子
『ブリューゲルの世界』
新潮社・とんぼの本
2017年刊
森洋子氏の『ブリューゲルの世界』の第1章「生涯編」を読む。
ブリューゲルの生年・生地は、今日でも依然として不明のままである。
ただ、生年は、1525年から1530年の間と推測されている。
生地も、現オランダか現ベルギーのどこかの町であることは間違いない。
1545年頃、アントワープのピーテル・クックに弟子入りする。
クックは6年間イタリアでルネサンス絵画を学んだネーデルランドを代表するロマニストの一人で、幅広く活動するほか、建築理論書を翻訳するなど知識人でもあった。
ブリューゲルの作品を見ると、師から様式上の影響は直接的には受けていないが、師の人文主義的な教養に啓発され、その翻訳を通じ、古代ローマの建築様式を学んだと思われる。
1550年のクックの死後、ピーテル・バルテンスの助手として、メッヘレンの大聖堂の祭壇画を手伝い、外翼のパネルをグリサイユで制作する。ただし、祭壇画は1566年のカルヴァン派による聖堂破壊運動の最中に喪失したとされる。
1551年、アントワープの聖ルカ組合に親方として登録する。これがブリューゲルに関する最初の記録である。
1552年頃から、リヨン経由でアルプス越えをし、イタリア旅行に出かける。
ローマで「小作品のミケランジェロ」と呼称された、細密画家ジュリオ・クローヴィオを訪れ、3点の作品(いずれも現存せず)を制作する。
このうちの1点が、象牙に描いた《バベルの塔》。そのため、ブリューゲルは、少なくとも3点の《バベルの塔》を描いたと言われることになる。最初の《バベルの塔》は、既にコロッセオ風の塔だったのか。
ブリューゲルは、ローマに滞在したほか、ナポリやボローニャに訪れたらしい。
数年間のイタリア滞在、ブリューゲルの関心は、ルネサンスの宮殿や当時のイタリア・マニエリスム様式には向けられなかったようだ。関心は、各地の古代遺跡や、イタリアとの往復路で対峙した「天を突くアルプスの雪山、聳える岩山の断崖絶壁、深い谷間の渓谷」にあった。
1554年、アントワープに帰国する。版画発行業者ヒエロニムス・コックの許で下絵画家として活動を始める。アルプスを描いた組版画「大風景画」、1540年代中頃からのボス・リヴァイヴァル・ブームを受けた下絵素描の制作など。
1563年、師クックの娘マイケンと結婚。その後ブリュッセルへ移住する。
現存する油彩画41点のうち、アントワープ時代の作品が11点。ブリュッセル時代の作品が30点。今回来日の《バベルの塔》は、ブリュッセル時代の1568年頃の制作とされる。
1569年、病死する。40代半ばに達しないでの死である。長男は5歳、長女は3歳、次男は1歳。妻は第4子(次女)を身ごもっていたと推測されている。
姑(クックの3番目の妻)のマイケン。
彼女は、イタリアの歴史家グィッチャルディーニから評価されるほど、細密画の技法に優れていたが、その作品についてはほとんど知られていない。
二人の息子に絵の手ほどきをしたのは彼女だと伝えられる。
また、長男が長じてブリューゲルのコピーを大量生産したとき、彼女は何らかの役割を演じたと考えられている。
妻は1578年没。姑は1600年頃没。