今期(2023/5/23〜9/10)の「MOMATコレクション」展示より。
十亀広太郎(1899-1951)は大阪に生まれ、はじめ関西で水彩画や油彩を学び、1914(大正3)年、第一回の二科展で二科賞を受賞します。その後20年に上京し、東京で制作を続けました。ここに紹介するのは、十亀が震災直後に都内各所を訪ねながら、その情景を丹念に描きとめた水彩です。
十亀の水彩画は、前期(〜7/17)・後期(7/19〜)で各3点の展示。
十亀広太郎
《御茶ノ水丘上ヨリ本郷方面ニ向》
1923年 水彩・紙 50.4×34.3cm
タイトルにある御茶ノ水丘とは、神田駿河台あたりのことでしょうか、一本の枯れ木が象徴的に描かれています。
この丘から本郷方面を望む構図ということは、奥に見える建物は東京大学かもしれません。
画家の立つ丘から遠景の建物までの間に広がる、見渡す限りの荒れ野原が、震災による被害の凄まじさを物語っています。
十亀広太郎
《東京新橋銀座通賑之景 新橋芸妓組合復興ノ提灯》
1923年 水彩・紙 29.4×38.4cm
十亀広太郎
《東京上野廣小路松坂屋附近》
1924年 水彩・紙 34.2×50.2cm
震災当時、上野広小路には、1916(大正5)年に竣工した洋風四階建の百貨店「松坂屋」があり、17年の第二期工事を経て約6,600平米となったその店舗は、帝都東京の名建築の一つと称されたといいます。織田一磨の《「東京風景」より 上野廣小路》が制作されたのは16年ですから、ちょうど松坂屋が完成しつつあった頃の風景でしょう。
松坂屋は震災の翌日に類焼し、灰燼に帰します。同じ構図ではありませんが、十亀が描いたこの画面と比較すると、とても同じ場所とは思われません。その被害の大きさが想像できるでしょう。この後、はやくも29年に、松坂屋はルネサンス風の荘厳華麗な新館を再建し、上野広小路の都市風景を一変させていきます。
十亀広太郎
《東京新橋側ヨリ築地-逓信省等-》
1923年 水彩・紙 29.3×38.9cm
十亀広太郎
《東京神田明神附近》
1923年 水彩・紙 34.4×50.3cm
十亀広太郎
《御茶之水ニコライ堂》
1924年 水彩・紙 34.3×49.9cm
ロシア正教伝道のため1891年に建設されたニコライ聖堂は、震災により上部ドームが崩落し、全体が火災に見舞われて土台と煉瓦壁のみが残されました。モニュメンタルな被災の象徴として、多くの作家がその姿を記録しています。
表紙:岡田三郎助「燃えつつある浅草十二階」
「特集:東京大震大火画報」「主場の友」7巻10号、1923年10月
表紙:横山大観
『大正大震災大火災:噫!悲絶凄絶空前の大惨事!!』大日本雄辯會講談社、1923年10月
『関東大震災画帖』金尾文淵堂、1923年10月
「その日の午後」「哀れなる女の群!それは最後まで苦忍と惨虐、そのものであらねばならなかった。」
「特集:二科展と震災」『みづゑ』224号、1923年10月
小野忠重
《一九二三年九月一日》
1932年 木版(多色) 13.9×23.1cm
早稲田実業学校在学中に創作版画にめざめた小野忠重(1909-90)は、1920年代末にプロレタリア美術運動へと向かいます。やがて新版画集団を結成して、ジョルジュ・ルオーやオットー・ディックスの技法を取り入れた、力強い造形の版画を生み出そうと試みました。
本作はその時期の作品で、関東大震災から10年近く経った1932年に制作されました。当時14歳だった小野の生家は火災によって全焼しており、その時の記憶をもとにして描いたものと思われます。