東京でカラヴァッジョ 日記

美術館訪問や書籍など

レンブラント《ベッドの中の女性》、レンブラントの内縁の妻ヘールチェ・ディルクス

2022年05月17日 | 展覧会(西洋美術)
スコットランド国立美術館
THE GREATS 美の巨匠たち
2022年4月22日〜7月3日
東京都美術館
 
 
レンブラント(1606-69) 
《ベッドの中の女性》 
1647年、81.1×67.8cm 
スコットランド国立美術館
 
 私的には、画集にて本作品の存在を認識していたが、何を描いた作品なのかは知らず、単にエロティック系の作品なのだろうと思っていた。
 
 今回、本展にて、旧約聖書の物語の一場面であることを知る。
 
 女性は、旧約聖書の「トビト記」の登場人物、トビトの息子トビアの妻となるサラ。 
 結婚初夜に新郎を7度悪魔アスモデウスに殺されているサラが、新たな夫トビアと悪魔との戦いを見守る場面と考えられているとのこと。
 
 ただ、そうだと特定できる要素は全く描かれていない。 
 
 トビアは、旅の同行者(大天使)に言われたとおり、旅の途中で取った魚の内臓を香炉に入れて焚いたところ、悪魔は部屋から逃げ出し、最後は大天使が悪魔を幽閉したという話となる。
 
 その場面の全体を描いた作品を見る。
 なるほど、こういう場面なのか。
 レンブラント作品はその一部を切り取ったような感じになるのか。
 
ピーテル・ラストマン(1583-1633)
《トビアとサラの結婚の夜》
1611年、41.2×57.8cm
ボストン美術館
 
ニコラウス・クニュプファー(1609頃-55)
《トビアとサラの結婚式の祈り》
1654年、29×24.5cm
ユトレヒト中央博物館
 
ヤン・ステーン(1625/26-79)
《トビアとサラの結婚式の夜》
1688年頃、81×123cm
ブレディウス美術館、デン・ハーグ
 
 意図的に探す範囲を絞った訳ではないが、結果的にいずれも17世紀オランダで制作された3作品が見つかった。
 どうやらこの主題は、17世紀オランダで好まれたということか、逆に、他の地域・時代では取り上げられることがほぼなかったということか。
 なお、ラストマンは、レンブラントの師であった画家であり、上記作品は、本展図録の本作品解説で紹介されている。
 
 
 
 図録の本作品解説は、この女性のモデルは誰かから始まっている。
 その画題から、レンブラントの身近にいた女性が想定されている。
 本作品の画面左下隅には、画家の署名と制作年が記される。
 現状は制作年の下一桁が判読不能な状態であるが、かつて判読可能なときにその数字が「7」であったと分かっているとのこと。
 
 
   また、本作品のかつての所有者が、本作品とともにいる肖像画を制作させており、その肖像画の画中画にも「7」と記されているとのこと。
 
ジャン=エティエンヌ・リアタール(1702-89)
《フランソワ・トロンシャン》
1757年、38×46.3cm
クリーヴランド美術館
 
 画家ジャン=エティエンヌ・リアタールは、スイス・ジュネーブに生まれ、パリで修業し、イタリア、ギリシャ、コンスタンチノープル(5年間滞在)に旅し、ウィーン、ダルムシュタット、パリ、ロンドン、オランダ、再びパリで仕事をし、地元ジュネーブに戻って晩年の約30年を地元で活動する。
 肖像画のモデルであるフランソワ・トロンシャン(1704-98)は、ジュネーブで評議員を務め、ヴォルテールら思想家と親交があった著名な美術愛好家。
 1757年に、トロンシャンは、レンブラントのこの作品を購入、その記念としてこの肖像画を注文したようだ。
 その後、トロンシャンは1765年頃までにレンブラントを手ばなす。
 所有者が何度も変わったのち、1892年に寄贈によりスコットランド国立美術館の所蔵となる。
 
 
 
 制作年が1647年となると、妻サスキアの死去は1642年であること、晩年の伴侶ヘンドリッキェがレンブラント家に来たのは1649年とされることから、モデルは、1643年頃から49年までレンブラント家にいたヘールチェ・ディルクスである可能性が高いとのこと。
 ただし、彼女の容貌が確実に分かるような肖像画は知られておらず、可能性に留まっている。
 
 
 
 ヘールチェ・ディルクス(1610/15-56頃)。
 
 1643年頃、彼女は、次男ティトゥスの乳母としてレンブラント家に来る。
 彼女の兄弟がレンブラントと関係があった(レンブラントからなんらかの保護を受けていた?)ことからの縁であるらしい。
 ほどなくレンブラントと内縁関係となる。
 
 1649年、ヘールチェはレンブラントを婚約不履行で訴える。
 評決は、レンブラントが彼女に毎年200フルデンを支払う、となる。
 
 ヘールチェは、この裁定によりレンブラント家を出ることとなるが、彼女がレンブラントから貰っていた宝飾品の一部を質入れしたことが判明、レンブラントは怒りを爆発させ、その後様々な策を弄して、彼女を自分の周辺から遠ざけ、発言できない立場に追いやり、1650年には彼女を感化院に収監させる。
 
 1655年、ヘールチェは身内の努力により感化院を出るが、翌年に他界する。
 
(以上、熊澤弘『レンブラント』角川文庫刊をもとに記載。)
 
 このヘールチェと入れ替わる形で家政婦としてレンブラント家に来たのが、レンブラントの晩年の内縁の妻となるヘンドリッキェ(1626-63)である。
 いや、ヘンドリッキェが来たのは1647年頃であり、ヘールチェと期間が重なっているとの説もある。
 ヘールチェは、内縁の妻に留まることを嫌ったというよりも、新しく来た若い家政婦と恋仲となったレンブラントが自分との関係を清算しようとすることに抵抗しようとしたというのが本当のところだろうか。
 その結果が感化院とは、、、。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。