正宗得三郎
2017年11月3日〜12月28日
府中市美術館
府中市ゆかりの画家であり、府中市美術館での回顧展は平成14年以来2回目とのこと。
1883年(明治16年)岡山県生まれの得三郎は、1902年(明治35年)に日本画家を志し上京、のちに洋画に転じる。青木繁との交流が有名なようである。
1914年(大正3年)、パリに遊学するが、到着後間もなく第一次世界大戦が勃発。予定より早く切り上げ、1916年に帰国。この間、旅行や美術館訪問もままならなかったらしい。
リベンジと、1921年(大正10年)に再渡欧し1924年まで滞在。有意義な遊学になったようだ。
得三郎は、遊学時代にマチスと交流があったとのことで、本展にマチスが得三郎の顔を描いたラフスケッチが出品されている。また、2回の遊学の思い出を雑誌連載だか書籍出版だかで記していて、本展の図録は画文集と題してそのエッセイがたっぷり掲載されている。オーヴェールのガシェ家コレクションを見たのだろうか、当時のイタリア美術紀行はどんな感じだったのだろうか、など、ちょっと興味がある。
帰国後は、二科会などで活躍する。1945年、空襲により中野にあった新築のアトリエと前半生の作品すべてを失う。
本展の前半では、展示作品の隣に二科会出品作の絵葉書の小さな図版が結構な数参考掲示されている。これら絵葉書の原作品は空襲で焼失した作品なのだろうとしみじみと見ていたら、1点だけ絵葉書の隣に実物が展示されている。世の中そう単純に考えてはならぬ。
焼け出された得三郎は長野県飯田に疎開するが、1949年に次男のいる府中に移り、以降1962年に亡くなるまで府中で制作活動を続ける。本展出品作の半分くらいは、飯田時代・府中時代の作品のようで、府中の風景を描いた作品も多数ある。
本展の構成
1 明治ー画家の誕生
2 大正ー色彩の音楽を求めて
3 昭和ー東洋回帰・日本的表現へ
4 飯田から府中へ
得三郎作品で私が思い浮かぶのは、2014年ブリヂストン美術館「描かれたチャイナドレス」展で見たチャイナドレス姿の女性像3点。今回もその3点との再会を期待しての訪問である。
夫人の回顧
「その始まりは、パリから持ち帰りましたおみやげの中に美しい手芸品ときれ地があったのを利用して、私が手製の支那服を作り、モデルとなった時からです。」
「サンプルのない支那服を、絵になるような美しい変わった形を考案して作るのに苦心しましたが、自分の作った支那服が絵になるので私も張合いがありました。」
本展には、その時見た3点のうち2点が出品。2点とも府中市美術館の所蔵。また、二科会出品作のチャイナドレス姿の女性像の絵葉書の参考掲示が3点、うち1点が本展出品作。
この画家は、本展出品作を見る限り、奥様お手製のチャイナドレスを着た女性像を含む、ちょっとマチスを思わせる色彩の女性像が良い気がする。
《赤い支那服》
1925年、府中市美術館