東京でカラヴァッジョ 日記

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ミンニーティ≪キリストの笞打ち≫(名作を追う)

2014年05月25日 | 西洋美術・各国美術

宮下規久朗『カラヴァッジョへの旅』

 マリオ・ミンニーティといえば、カラヴァッジョのローマ時代の弟分、そしてカラヴァッジョの初期の絵に登場する豊頬の美少年。
 その画業について、苦みたっぷりの記述。

 1577年にシラクーザで生まれたミンニーティは、故郷でもめごとを起こしてマルタ島へ逃げ、ついでローマに出る。
 カラヴァッジョと出会ってからはその弟分として、徒党を組んで賭場や居酒屋でいさかいをくりかえす仲間であったが、やがてこうした荒廃した生活に嫌気がさし、ローマで結婚して独立した。

 やがて里心が起き、10年間のローマ生活を切り上げて妻をともなって帰郷する。
 ところがここでふとしたはずみで人を殺してしまい、修道院に逃げ込む。その後しばらく被害者の親族に懇願したり有力者を動かしたりした挙句、赦されるのだが、当地にいづらかったのか、メッシーナに移り住む。
 そこで精力的に制作してシチリア中に名声を馳せ、一時は弟子が12人もいたという。
 ローマから連れてきた妻が亡くなると、これ幸いと地元の貴族の令嬢と結婚し、贅沢な生活を送ったという。
 マルタ島にもわたって制作し、富と名声に恵まれつつ1640年に天寿をまっとうした。
 絵から判断する限り、どうしようもない凡才であったが、世渡りがうまかったせいか、天才だが生を全うできなかったカラヴァッジョとは対照的な後半生であった。

 そんなミンニーティのもとに、(マルタから逃亡し)着の身着のままのカラヴァッジョが頼ってきた。かつての兄貴分とはいえ、8年間も疎遠だったのだが、ミンニーティは温かくこれを迎え、できるかぎりのことをした。祭壇画≪聖ルチアの埋葬≫の仕事をカラヴァッジョに斡旋したのである。この祭壇画は、自身がねらっていたものか、依頼されていたものであろう。それを気前よく譲ったのである。
 もっとも、イタリア全土に響く名声をもっていたカラヴァッジョのために口をきくことで、自身の人脈を誇示しようとしたのかもしれない。

 この画家が、シチリアにおける最初のカラヴァッジェスキであったということは、シチリアの美術にとって不幸であったとする研究者さえいる。


 ミンニーティの作品を見たことがあるかというと。
 2001年東京都庭園美の「カラヴァッジョ展」で見ている。
 2点(ペア作品)。うち1点がこれ。

≪キリストの笞打ち≫
Fondazione Lucifero, Milazzo蔵


 ただし、全く印象が残っていない。


 2004年にシラクーザで「マリオ・ミンニーティ展」が開催されたと知り、その図録を入手した。
 全38点の出品で、23点がミンニーティ作品。たぶん全部がシチリア島内の所蔵。
 代表作とされる次の作品も出品。

≪ナインの寡婦の息子の復活≫
 メッシーナ州立美術館蔵
 

 彼が凡才かどうかを判断する能力は私にはないが、展覧会図録の図版を見る限り、特に(聖なる)女性の顔の描写にはちょっとひかれる。
 メッシーナやシラクーザを地道に巡れば見ることができるだろうが、そんな旅を実現できる時間・金・体力、そして総合的な旅力が私にあるとは思えない。
 次のカラヴァッジョ展の開催を待つ。2001年の次は、その30年後?



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