2023年の府中市美術館の展覧会により、「インド細密画」に少し関心を持った私。
東博の東洋館の地下1階、一番奥の13展示室に常設展示される「インド細密画」の鑑賞を2024年1月から始める。
概ね1ヶ月単位で展示替えが行われるようであり、今回は3度目の鑑賞。
今回鑑賞(2024年3月5日〜31日)
・テーマ:イスラム教系とシク教系の画派による肖像画
・展示数:9点
以下、画像を掲載する。
《花を持って坐るムガル貴族》
ラクナウ派、17世紀末~18世紀初
《王子とその婦人たち》
地方ムガル派、18世紀後半
王子は数多くの女性を待らせ、宮殿のテラスでくつろいでいます。
背面にヒジュラの1198年(西暦1784年)の年記、そしてアワド藩王国の統治者の名が入った印が押されています。
おそらくこの絵は18世末のラクナウの宮殿内を描いたと考えられます。
《チョーキーに坐るムスリム王子》
ゴールコンダ派、18世紀前半
【ニザーム藩王国】
1724年に創始したイスラム教国であるニザーム王国は、近隣王国の脅威を除くため、1798年、イギリスの従属国、つまり藩王国として存続を図る道を選ぶ。
1947年のインド・パキスタン分離独立時、単独で独立を宣言するが、翌1948年、インド軍に降伏し、インドに併合される。
《テラスに立つハイデラバードの君主(ニザーム)》
ハイデラバード派、19世紀前半
画家は君主の威厳を高めようと、あたかも神像のように、君主の頭の後ろに緑色の頭光を表しています。
ハイデラバードはインド中南部に位置する都市です。
1798年以降、この地はニザーム藩王国(ハイデラバード藩王国)が統治し、王はニザームと称していました。
《太守ナサル・アル・ドウラ》
ハイデラバード派か、19世紀中頃
画面上部に、「デカンの太守ナサル・アル・ドウラ(ナーシル・ウッダウラ)」と記しています。
ナーシル・ウッダウラ(1794~1857)は、ニザーム藩王国第7代君主(在位1829~1857)です。
色鮮やかな服の上につけた豊かな装飾品は、絵具を盛り上げて表現しています。
【シク王国】
1801年に創始したシク教国であるシク王国は、初代君主ランジート・シングのもと、イギリスの植民地化が進むインドにおいて唯一の独立国としての地位を保持していたが、1839年の初代君主の死後、深刻な後継者争いに陥る。
5名の君主を経た10年後の1849年、イギリスとの戦争に降伏。イギリスはその領土を併合し、インドの植民地が完成する。
《シクの貴族とその夫人》
シク派、19世紀前半
16世紀後半以後、インド北西部のパンジャーブ地方ではシク教徒が小国を形成し、その勢力を保持していました。
この地域に隣接するアフガニスタンと抗争を繰り広げるようになると、シク教徒はしだいに勢力を結集し、ついには18世紀にシク王国として独立するまでになりました。
《テラスで椅子に腰かける王ランジート・シング》
シク派、19世紀中頃
ランジート・シング(1780~1839)は、パンジャーブ地方にあった小国の首長の子として生まれました。
1790年前半には父の後を継いで首長となると、シク教徒の小国を続ーし、やがて1801年にパンジャーブの統治者としてシク王国を築きました。
彼は幼少期に左眼の視力を失いました。画家はそれを忠実に描いています。
《宰相ディヤーン・シング坐像》
シク派、19世紀中頃
ディヤーン・シングは、第5代君主シェール・シング(在位1841~1843年)のときに宰相を務めました。
当時のシク王国は、建国者であったランジート・シングの後継者争いが続いていました。
1843年、彼もまた王とともに殺害されてしまいました。
《椅子に腰かけるシクの貴族》
シク派、19世紀後半
展示替えの都度皆勤を目指すのではなく自然体で、展示が一巡するまでを目途に鑑賞を続けるつもり。