サムライ、浮世絵師になる!
鳥文斎栄之展
2024年1月6日〜3月3日
千葉市美術館
会期末近くに駆け込み訪問する。
「サムライ、浮世絵師になる!」という副題がピンとこないままの訪問であったが、会場での解説を読み、そういうことかと認識する。
作品自体ももちろん楽しく見るが、興味は解説に向かう鑑賞となる。
鳥文斎栄之(ちょうぶんさい・えいし、1756−1829)。
祖父が勘定奉行という名門の家柄、禄高500石の旗本・細田家に生まれる。17歳で家督を継ぐ。
当初、将軍家治(1737-86)の御小納戸役として「絵具方」という役目を務め、御用絵師狩野栄川院典信(1730-90)に絵を学ぶ。
天明6年(1786)家治が逝去し、田沼意次(1719-88)が老中を辞した時代の変わり目の頃、本格的に浮世絵師として活躍するようになり、やがて武士の身分を離れる。
同時代の喜多川歌麿(?−1806)と拮抗する活躍。
旗本出身という出自は、浮世絵師として異色であったらしく、老舗の版元は、売るにあたって、その出自を最大限利用したようである。
その分、栄之は、デビュー早々より「大判絵」3枚続や5枚続を任されるなど、一般の浮世絵師と比べて恵まれたスタートであったという。
栄之は、大首絵をほとんど制作せず、もっぱら全身座像や立ち姿で描いたが、それは歌麿との棲み分けを狙ったものらしい。
「紅嫌い」では、質量ともにもっとも充実した作品を残しているという。
寛政の改革の一環である幕府の出版規制。規制に反抗し続けた歌麿などの絵師とは対象的に、栄之は、その出自に由来するのか、版画の制作を止め、画業後期は肉筆画の制作に専念する。
長身で楚々とした美人画。自身が武家出身がゆえに可能な、上層の女性風俗の表現。総じて上質の造り。その上品な作品は、特に上流階級や知識人などから好まれたという。
本展は、国内所蔵作品のほか、ボストン美術館や大英博物館の所蔵作品が出品されている。
【本展の構成】
プロローグ 将軍の絵具方から浮世絵師
第1章 華々しいデビュー 隅田川の絵師誕生
第2章 歌麿に拮抗 もう一人の青楼画家
第3章 色彩の雅 紅嫌い
第4章 栄之ならではの世界
第5章 門人たちの活躍
第6章 栄之をめぐる文化人
第7章 美の極み 肉筆浮世絵
エピローグ 外国人から愛された栄之
本展で撮影可能な作品は3点。以下画像。
鳥文斎栄之
《川一丸船遊び》
寛政8-9年(1796-97頃)、ボストン美術館
第1章展示。大判5枚続の豪華な版。
デビュー早々から大判を任された栄之、デビュー期の作品としては、やはり大判5枚続の《吉野丸船遊び》天明7-8年(1787-88年)頃、千葉市美術館蔵、などが紹介されている。
鳥高斎栄昌(生没年不詳)
《郭中美人競 大文字屋内本津枝》
寛政9年(1797)頃、ボストン美術館
第5章展示。栄之の門人。
栄之の門人の来歴は総じて判明していないらしい。多くが武家出身で、その出自を隠しておきたかったのでは、と考えられているという。
猫を抱き抱える遊女を描いた本作は、世界で1点のみ確認される作品だとのこと。
鳥文斎栄之
《新大橋橋下の涼み船》
寛政2年(1790)頃、ボストン美術館
第1章所属であるが、エピローグに展示。
大判5枚続、初夏の大きな屋形船を描く。
撮影可能作品3点は、すべてボストン美術館所蔵作品であった。
鳥文斎栄之の名前はこれまで意識したことはなかった。展覧会で見ているだろうが、おそらく歌麿の続きで並べられ、おそらく同じ題材の作品(例えば、富本豊雛、難波屋おきた、高島屋おひさの寛政三美人。本展にも出品あり)があって、歌麿の方がずっと良いなと思って、と、いわば歌麿の引き立て役の絵師という感じで接してきたに違いない。歌麿と拮抗して活躍した武家出身の絵師として、今後はこれまでとは違った接し方となりそうである。