マティス 自由なフォルム
2024年2月14日〜5月27日
国立新美術館
アンリ・マティス(1869-1954)について、ニース市マティス美術館の所蔵作品を中心に、切り紙絵に焦点を充てるが、画業の展開を辿ることができる各時期の作品も紹介される。
当初は2021年9〜12月開催の予定もコロナ禍により延期となっていたもので、結果として、2023年の東京都美術館「マティス展」に続いて、連続の回顧展開催となる。
【本展の構成】
1 色彩の道
2 アトリエ
3 舞台装置から大型装飾へ
4 自由なフォルム
5 ヴァンスのロザリオ礼拝堂
チラシのメインビジュアルを担う切り紙絵
《ブルー・ヌードIV》
1952年
オルセー美術館(寄託:ニース市マティス美術館)
4.1×8.7メートル、大作の切り紙絵
《花と果実》
1952-53年
ニース市マティス美術館
最晩年に取り組んだ、マティス芸術の集大成とされるヴァンスのロザリオ礼拝堂にかかわる作品・資料の展示に加えて、
ロザリオ礼拝堂の内部空間の再現。
が見どころとなるであろうか。
私的には、Section4 で紹介される「マティスと日本」に注目する。
今から73年前の1951年(昭和26年)に開催されたマティス展。
アンリ・マティス展
1951年3月31日〜5月13日
東京国立博物館(表慶館)
(その後、大阪市立美術館、大原美術館に巡回)
✳︎本展公式サイトより借用。
1951年の展覧会にまつわる作品・資料として、スケッチ3点と出版物6点が展示される。
《顔》3点
1951年、読売新聞社
展覧会の主催者の一つであった読売新聞社がマティスから寄贈されたもの。
マティス作品を表紙に掲載した出版物。
右は、寄贈された《顔》を使用している。
左は、1951年の展覧会カタログらしい。当時東京国立博物館の職員で展覧会を担当した嘉門安雄氏の著書『ヴィーナスの汗 - 外国美術展の舞台裏 -』(1968年、文藝春秋)によると、「絵を尊重して題字を入れなかった」とのこと。
この展覧会が開かれる前、当時80歳を超えていたマティスは、前年のパリでの展覧会を最後に展覧会は行わないという意志を固めていました。しかし、ヴァンス礼拝堂制作にも携わっていたマティスの弟子で画家・陶芸家の硲(はざま)伊之助(1895-1977)の説得もあり、門外不出とされていた油絵13点を含む100作品以上で構成される展覧会が実現することになりました。
✳︎本展公式サイトより。
「日本国中マティス模様」。
嘉門氏の著書で1951年のマティス展のことを記した章の題名である。
入場者数は、16万人弱。それほどの数ではないように思えるが、当時「恐らく美術展と名がつくものがわが国に始まって以来、昭和15年の「正倉院展」につぐ大記録」であったらしい。
✳︎昭和15年の正倉院展の入場者数は40万人超。
以下、人気ぶりを示すエピソード。
・会期中、一日も欠かさず、千葉から通ったという青年があらわれる。
画家の猪熊弦一郎氏も三日にあけず会場にあらわれる。
・嘉門氏の知人で、およそ美術とは縁遠い仕事と趣味の人が嘉門氏を訪ねてくる。
「勤めている機関の会議でも、食堂でも、話題はマティスのことでもちきりなので、とにかく見ないことには話にならぬと思ってやってきた。」
・マティスという喫茶店、ヴァンスというバーもできる。
大阪では、はやばやと初日に「マティス模様」と称する風呂敷が売りに出される。
・大阪の会場で係員を務めたところ、一人の老婆が、険しい顔で寄ってきて、訛りの多い言葉で、くってかかるように言う。
「近所の人たちばかりか、うちの孫まで、マティス、マティスというから、どんないいものかと思ってわざわざ2時間も、混む汽車にのって見にきたら、「たかが絵の展覧会」ではないか。それも、マティスというものがどこにもなく、目も鼻もろくにかいていない絵だの、千代紙細工ばかりではないか。こんなものを高い料金をとって見せるなんて、祭りの見せ物よりも悪い。とんでもないペテン師だ。」
この展覧会では様々な突飛な質問にもなんとか切り抜けてきた嘉門氏も、この老婆に対しては、ついに一言の説明も弁解もできず、ただ、深く頭を下げるほかに仕方がなかった、と記す。
「熱狂」は言い過ぎの感もするが、マティス展がかなりの話題となったことは確かだろう。
読売新聞社は、同年秋、マティス展に引き続き、ピカソ展も開催している。
70歳を迎える現役画家ピカソの作品を100点、フランスから運んでくる。
会場は、日本橋高島屋(8月26日〜9月2日)と大阪市立美術館(9月12日〜10月14日)。
ただし、その入場者数は、マティス展ほどではなかった。
東京は、百貨店の展覧会らしく?会期が短すぎて比較が難しい。
大阪は、マティス展と開催場所は同じで、会期日数はやや多めであったが、入場者数は4分の1ほどであったようだ。
嘉門氏(ピカソ展とは関わりなし)は、「ピカソそのものに対して、当時の日本の一般観衆が、まだマティスほどには親しめなかった」、「マティスの明快さにはついてゆけても、ピカソの爽快さにはまだ距離があった」と記す。
一般観衆は親しめなかったかもしれないが、1951年のピカソ展が、画壇に及ぼした影響は大きかった。
日本の美術界において、この展覧会を契機に、1910-20年代以来、2度目のキュビスム・ブームが起こる。2016-17年の埼玉県立近代美術館「日本におけるキュビスム - ピカソ・インパクト」がそれを取り上げている。
昭和26年3月31日〜5月13日の日本。
マッカーサーがGHQ最高司令官を解任される。国鉄桜木町駅の列車火災事故により106人の死者を出す。
✳︎東博では、同時期に特別展「宗達・光琳派展」を開催(4月7日〜5月6日)。
昭和26年8月26日〜10月14日の日本。
サンフランシスコ平和条約が締結される。
そんな時代のマティス展。
戦後初(かも)の本格的な国際交流展。
ラストで一気に持ってかれました!
以下もやばかったっす!
マティスMatisse カットアウトTheCut-Outs展 バーチャルツアー その(1)at MoMa NY (リンク)
その(1)〜 その(10)まであります
ご参考まで
コメントありがとうございます。
マティス展、閉幕してしまいましたね。
マティスは、私的には、1900〜10年代の作品が興味深いです。