徳永柳洲。
1871(明治4)年、岡山県に生まれる。
1889(明治22)年、18歳で上京し、二世五姓田芳柳の門下となる。このときパノラマ画の技法を身につける。
1893(明治26)年、結婚するとともに、五姓田塾から独立し、小石川区の自宅で画塾・審美学舎を開設し、後進の指導にあたる。
1898(明治31)年、萬朝報社に入社。画報部主任として、肖像や相撲の挿絵などで活躍する。
1911(明治44)年、40歳のとき渡欧、パリのアカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事するなど、約2年間滞在する。
1914(大正3)年、帰国後、萬朝報社を退社し、本格的な画家生活に入る。さまざまな展覧会に出品し評価を得るが、当時の画壇の絵画表現の変化、派閥抗争、そして妻の死を契機に画壇から距離を置くようになり、四谷区双葉町(現在の伊勢丹付近)のアパートでひとり暮らしをするようになる。
1923(大正12)年9月1日、徳永52歳。
住むアパートは全焼。
新宿御苑に避難し、一夜を過ごす。
翌日から、被災地を回り、震災の状況をスケッチする。
本郷、田端、上野、神田、竹橋、麹町。
浅草、本所、日本橋。
8名からなる「東京青年画家同人会」を結成し、震災発生後約1ヶ月あまりの間に、大型の震災パノラマ画を制作する。全25点とされる。
そして「移動震災実況油絵展覧会」を開催する。
この徳永の大型震災画全25点のうち、現存が確認されている24点は、東京都復興記念館が所蔵する(うち3点は、2010年に東京都慰霊堂の収蔵庫から発見)。
8点が東京都慰霊堂にて、16点が東京都復興記念館の常設展示(うち5点が2階ロビー、11点が2階中央展示室)にて展示されている。
以下、東京都慰霊堂に展示されている8点の画像を掲載する。
《小田原の津波》
《鎌倉の津波》
《日本橋附近災害の夜景》
《旋風》
《避難者の混乱》
《浅草北部》
《第一震十二階の崩壊》
《被服廠跡》
続いて、東京都復興記念館の2階ロビーに展示されている5点の画像。
《翌日の悲嘆》
《赤十字の活動》
《軍隊の傷病者救助》
《東海道根府川附近の崩壊》
《自警団》
✳︎2階中央展示室に展示の11点は今回訪問時は撮影せず。
「移動震災実況油絵展覧会」は、国内各地のみならず、アメリカにも巡回したとされているが、現在までに資料で開催内容が確認できているのは、富山県内のみとのこと。10月18〜21日に富山市、28日に入善町、31日に泊町(現・朝日町)で開催され、盛況であったことが、地元紙の記事で確認できるという。
震災の翌年冬、徳永は娘とともに富山市へ転居し、晩年を過ごす。
富山移住は、巡回展開催がきっかけになっていると考えられるとのこと。
1936(昭和11)年、65歳で逝去。
昨年(2023年)、神奈川県立近代美術館葉山の展覧会「100年前の未来:移動するモダニズム 1920-1930」にて、徳永の大型震災画3点を見た。
1920年代の新しい美術作品が並ぶなかに、大型震災画も同列で絵画作品として並んでいた。が、異質な存在であった。
美術というよりも、特別の目的をもつ教育資料なのだろうか。大型震災画連作には、特殊な展示環境が必要であるようだ。
【参照】
『関東大震災絵図』2023年9月、東京美術刊