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関東大震災から101年。
墨田区横網町(最寄駅:両国)の東京都復興記念館を訪問する。
お目当ては、秋季特別展。
令和6年秋季特別展
絵画「大震記念」
有島生馬の描いた関東大震災
2024年8月27日〜12月22日
東京都復興記念館
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まずは、2階の中央展示室へ。
有島生馬《大震記念》を見る。
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有島生馬(1882-1974)
《大震記念》
(大震災の印象を部分的に描写せるものなり)
1931年、198×352cm
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震災の8年後の二科展への出品作。
この時代の流行なのだろうか、コラージュ風で意図不明な大きな絵画という印象。
続いて、2階の回廊の秋季特別展コーナーへ。
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参考としての資料展示もあるが間接的なもので、基本はパネル解説である。テーマは2つ。
1 有島生馬、被災地を歩く
有島の震災当日の行動について、有島の随筆集『白夜雨稿』に収録された「震災備忘記」を元に、歩いたルートを可視化している。
8月30日、二科展の準備のため、自宅のある鎌倉から上京する。
9月1日11時58分、二科展会場である上野公園の竹の台陳列館、その入口で(誰だったのかどうしても思い出せないらしいが)和服を着た人と話をしていた。
15時頃まで上野にとどまって様子を見てから、母親の住む赤坂に向かう。画家・梅原龍三郎と美術研究家・田中喜作とともに歩く。
竹の台陳列館から広小路(道のりは不明確)
広小路から萬世橋
萬世橋から神田橋
神田橋から東京駅
東京駅から馬場先門
馬場先門から桜田本郷町(田中と別れる)
桜田本郷町から赤坂(道のりは不明。梅原を家まで送って家人の無事を見届けてから、母親の家に向かったらしい。)
この間、被災した東京の街の様子を目に焼き付ける。
母親の家に到着し、無事に再会を果たしたのは17時近くであったという。
上野から赤坂まで約2時間の徒歩。
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本項の解説パネル4枚のうちの1枚。
2 絵画「大震記念」
・描かれた著名人
13名の説明。
赤い服の少女のモデルは有島の姪だが、13名のなかには入っていない。
・描かれた震災に関する事柄
8事柄の説明。
当時数多く出回った写真や新聞雑誌・書籍などの情報から着想を得たと思われる場面が多いという。
こんな絵画なので、描かれた意図が明確にわかりかねるものも多いという。
「あとがき」パネルでは、その例として、大きく描かれた鉄(無線塔)、猿や犬などの動物たち、自動車の前輪の下敷きになっている書籍や掛け軸など、を挙げている。
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本項の解説パネル3枚のうちの1枚。
なお、《大震記念》は、今年度中に修復を行う予定とのこと。特別展終了後となるのだろう。
特別展に続く展示コーナーでは、竹久夢二の「東京災難画信」が紹介される。
都新聞(東京新聞の前身)に、1923年9月14日から10月4日まで全21回連載した、ペン画と文章によるルポ。
竹久は、有島と交友があり、一面焼け野原になった東京の街を一緒にスケッチして歩いたと言われる、有島の《大震記念》にも著名人の一人として描かれている、そして2024年は竹久の生誕140年の年、ということでの展示であるようだ。
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このコーナーで11点。
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1階の常設展示で6点が展示。
2階コーナーには「他の10点は復興記念館1階にて展示しております」とあったが、残り4点はどこに展示されていたのだろう。
第5回(9月18日)を転記する。
表現派の絵
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「音と言ったって、どんとかがらっとかいうありふれたんじゃあないんだ、迚も素晴らしい音よりもっと素敵な音だったよ。それと同時に、ガラス窓が、三角派の絵を雲母で描いたようにきらきらと光ったかと思うと、畳が波のようにうねって押寄せる、天井板が脛の上で口を開けているんだ。こうなると物の色とか形とかいうものは無くなって、元素が分解し、細胞が分離して、混沌とした常暗の神代のおのころ島さ。それでも不思議なものだね。そんな時にも人間は本能的に方角を心得ているんだね。真暗な中からどこをどう出たか、一つの壁を破ってその穴からふっと頭だけ出すと、空は真赤で、昼日中さ、天地開明てのはこれだなと思ったよ。見れば眼の限り瓦の波さ、その筈であの辺は場所が悪いや、がらっとくると同時にぴしゃんこになった田町なんだ。屋根の波の上を四ん匍になって匍ったものだ。山王の森が、緞帳芝居の浅黄幕のように、ふわりふわりと揺れているんだから、人間が歩けないのに無理はないやね。独逸の表現派の絵がやっと解ったよ」とある芸術家が話した。
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( ↑ 昨年の東京新聞本社の展示より)
ドイツ表現派って、いったいどんな絵画なのだ。
ある芸術家とは自身のこと? 竹久は自宅にいたが、しかしその住まいは、田町・山王ではなく、渋谷宇田川である。