デ・キリコ展
2024年4月27日〜8月29日
東京都美術館
東京都美術館の休館に伴い、本展は7月9日(火)から16日(火)まで、お休み。✳︎その分、7月8日(月)は開館。
会期中の連続休みは、年末年始を除いて想定しておらず、本展チラシなどにしっかり書いてあっても全く気付いていなかった。
たまたま休館直前の週末に行くが、気分が違えば、次の週末にまわして、休館をくらっていたかもしれない。
2014年の岩手・静岡・東京を巡回した「ジョルジョ・デ・キリコ-変遷と回帰」展以来10年ぶりとなるらしい、デ・キリコの回顧展を再訪する。
✳︎東京会場は、パナソニック汐留ミュージアム(現パナソニック汐留美術館)。
1910年代の作品がすべてと思い込んでいる私は、もっばら第2章「形而上絵画」を見る。
第2章の展示作品28点のうち、1910年代制作の作品は11点。
あとは、1920年代から70年代までの、1910年代作品を再制作した作品や1910年代作品の部材を再活用した作品となる。
【本展の構成】
Section1 自画像・肖像画
Section2 形而上絵画
形而上絵画以前
2-1 イタリア広場
2-2 形而上的室内
2-3 マヌカン
Section3 1920年代の展開
Section4 伝統的な絵画への回帰-「秩序の回復」から「ネオ・バロック」へ
Section5 新形而上絵画
Section2 形而上絵画
以下、会場内解説をメモ。
「形而上絵画以前」1点
(うち1910年代:1点)
《山上への行列》
1910年、50×50cm
ブレシア市立美術館
ドイツの表現主義の画家ベックリン風の作品から形而上絵画へと舵を切る直前に描いたもので、両者をつなぐ作品である。
2-1「イタリア広場」5点
(うち1910年代:2点)
一連のイタリア広場を描いた作品から、形而上絵画の発展を読み取ることができる。
1910-11年、伝統的な遠近法で構成され、基本的に正面から見た構図。わずかながら、側面からの視点も採用し微妙な不均等と知覚の混乱が生み出されている。
1912年、消失点が増え、異なる場所と高さに配置されるなど、遠近法の不調和はよりあからさまなものとなる。
1913年、その傾向をさらに推し進め、世界を破綻なく表現するための遠近法を、支離滅裂で脈略なく用いることで、夢のイメージにも似た、非現実的な世界を生み出していった。
1914-15年、ますます歪んだ遠近法と空間性が強調され、一段と現実離れしていく。
《沈黙の像(アリアドネ)》
1913年、99.5×125.5cm
ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館(デュッセルドルフ)
《大きな塔》
1915年(?)、81.5 x 36cm、
個人蔵
この2作品だけで、形而上絵画の発展を読み取るのは難しい。
2-2「形而上的室内」9点
(うち1910年代:4点)
広場を見渡す開けた世界から、クローズアップした事物が背景を埋め尽くすような閉ざされた室内へと変わっていく。
フェラーラの店先にあるショーウィンドウから取られたものであった。
1915-16年、作品の寸法は非常に小さく、戦時下で制作する困難がうかがわれる。
結果としてこの状況が、接近的な遠近法、レンズ状の事物の表現、緻密な細部の観察などの恩恵をもたらすこととなった。
画面空間は近視眼的で、ほとんど抽象的な閉ざされたものとなり、外部の空間は排除され、あたかも人間の存在を阻むかのようである。
《運命の神殿》
1914年、33.3x41cm
フィラデルフィア美術館
《福音書的な静物1》
1916年、80.5x71.4cm
大阪中之島美術館
《形而上のコンポジション》
1916年、33.5x26.7cm
ジャン・エンツォ・スペローネ・コレクション
《サラミのある静物》
1919年、30.8✕40.4cm
トリノ市立近現代美術館
大阪中之島美術館が所蔵する作品の存在は大きい。
2-3「マヌカン」13点
(うち1910年代:4点(含む素描2点))
絵画にマヌカンが登場した時期は、第一次大戦の勃発と、それに伴う最初の悲劇的な爆撃の発生に符合している。
《予言者》
1914-15年、89.6× 70.1cm
ニューヨーク近代美術館
《哲学者と詩人》
1916年、鉛筆/紙、28.1×21.8cm
ローマ国立近現代美術館
《貞淑な花嫁》
1917年、鉛筆/紙、32x22cm
ローマ国立近現代美術館
《形而上的なミューズたち》
1918年、54.3× 35cm
カステッロ・ディ・リヴォリ現代美術館(フランチェスコ・フェデリコ・チェッルーティ美術財団より長期貸与)(トリノ)
フェラーラでの「形而上的室内」前に、マヌカンが画面に登場し、「形而上的室内」の進展のなかで、「何もない」マヌカンも発展していく。
マヌカン最初期の《予言者》と、フェラーラ期最後の《形而上的なミューズたち》の出品はありがたい。
1919年、ローマに移ったデ・キリコは、ボルゲーゼ美術館でティツィアーノの作品に衝撃を受け、以降、ルネサンスやバロックの伝統的な絵画に回帰していく。
シュルレアリスムの画家たちに衝撃を与えることとなる「形而上絵画」であるが、1924年のブルトンの「シュルレアリスム宣言」発表時にはデ・キリコにとってすでに過去の画風となっており、デ・キリコは、シュルレアリストたちから過去の作品を賞賛されるとともに、現在の画風を批判されるという、なんとも不思議な環境に置かれたようである。
もし、2歳年下のエゴン・シーレのように、1918年に突然亡くなり、「形而上絵画」だけがのこっていたとしたら、デ・キリコの評価はどうなったのだろうか。
ただ、90歳まで生きて、「過去の画風」を踏まえたたくさんの作品を残したからこそ、日本でも回顧展が開催できて、数は望めないながらも「形而上絵画」を実見できるのは確かである。